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海風想

つれづれなるままの問わず語り

君の名はゴジラ〜シン・ゴジラと“名づけ”の話

庵野秀明監督『シン・ゴジラ』についてふと考えたことをまとめてみたが、ツイートでは長過ぎたのではてブに投稿してみる。

 
(※以下、『シン・ゴジラ』の核心部について思いっきり触れるので、ネタバレが嫌な人はブラウザを閉じることをお勧めします)
 
この映画の中では、ゴジラは最初から「ゴジラ」ではない。
 
もちろん、映画を見に来ている人達は始めから「ゴジラが出てくる」と知っていて見に来ている。
何しろタイトルが『シン・ゴジラ』だし、半世紀も前に作られた超有名特撮映画のリメイクだということも知ってるし、何なら「ゴジラ」がどういうビジュアルかも知っている。
だから始めに出てきた不気味な肺魚みたいなやつ(ゴジラ第二形態)については「ん?これとゴジラが戦うの? ああ、これがゴジラになるのか」などと逡巡することになる。
 
でもそれは、私たちが「ゴジラ」を知っているから。
考えてみれば当たり前である。
 
ところが、劇中(『シン・ゴジラ』の物語世界)においては、登場人物たちは「ゴジラ」を知らない。
この物語世界は、「円谷英二の生まれなかった日本」という裏設定がある。
当然、戦後にゴジラは作られていないし、何ならウルトラマンも怪獣も居ない。
だから劇中で「怪獣」という言葉は一度も使われない。
海中から巨大な尻尾が現れた瞬間も、その後尻尾の主が街に上陸して家屋を破壊していた時も、誰も「怪獣だ!」という台詞は吐かない。
物語前半部におけるゴジラの名称は、飽くまで「巨大不明生物」である。
 
この「巨大不明生物」に「ゴジラ」の名が付されるのは、パタースン大統領特使によって、牧博士の遺した資料が詳らかにされて後である。
この時、竹野内豊演じる赤坂補佐官は「こんな時に名前なんか……」と呟く。
確かに、蒲田に上陸した謎の生物に大田区辺りをボロボロに破壊され、その対応にてんてこ舞いになっている立場からすれば、破壊した当の生物がゴジラであろうと巨大不明生物であろうと大したことではない、そんなことよりあの生物を何とかしろ、そう思うのも無理はないし、実際あのシーンを最初に見た私もそう思ったものだ。
 
だが、ここで「巨大不明生物」が「ゴジラ」と呼ばれるようになったことは、実は大きな意味がある。
これまで漠然とした「巨大不明生物」という概念だったものが、「ゴジラ」と名を付されることによって、血の通った、れっきとした「リアル」の存在として、人々の前に浮かび上がってくるからである。
 
劇中で、議事堂を前に「ゴジラを倒せ」と「ゴジラを守れ」という対照的なプロパガンダを叫ぶ群衆が描かれているが、このように人々が「排除」派と「擁護」派に分かれたのも、ゴジラに名前がついてからではないだろうか。
名前をつけるということは、人々の感情を呼び起こすのに最も簡易で有効な手段である。
もっと平たく言えば、人は物に名前を付けると「愛着」がわくのだ。
 
例えば、家の庭に猫が迷い込んできたとする。迷い込んできた時点では猫は単なる「生活に入り込んできた異質な存在」であるが、名前をつけてしまったら、「うちの子になるか」となるのが人情だ。
「外の世界」の関わりのない存在だったものが、名づけによって「こちら側の世界の一員」となる瞬間である。
逆に言えば、「どうでもいい存在」には名前など付けないだろう。
普段使っているペンや定規などの道具に名前をつけている人が居れば、それはその人がその道具を「とても大切に思っている」証拠となる。
 
「愛着」と書いたが、名づけによって引き起こされる感情は、好意的なものだけではない。
嫌な上司や隣人などに「あだ名」をつけるのは、自分の悪意を名前によって固定化する行為だと私は思っている。
「好き」の反対は「無関心」という言葉があるが、実際関心のないものにはあだ名もつけない。
悪いあだ名をつけるのは、それだけその人に対して関心がある証である。
 
話が逸れてしまったのでゴジラに戻すと、「巨大不明生物」と呼ばれていた生物に「ゴジラ」の名前がついたことで、人々は特定の感情を抱くようになる。
牧博士は荒ぶる神の化身として、「呉爾羅(GODZILLA)」と名付けたことになっているが、この名前に引っ張られ、皆しばしばゴジラ人智を超えた能力に敬意を表するようなコメントを口にする。目の前で自分の生活圏が破壊されている様を目にしているにも関わらず、「くそ、ゴジラめ!」などと罵倒する人間は一人もいない。神に悪態をついても仕方がないとでも思っているかのように。
唯一、ゴジラの破壊活動に怒りを示しているように見えるのは矢口蘭堂だが、彼の怒りの矛先も、ゴジラそのものというよりは、無力な自分自身に対して向いているように見受けられる。
ゴジラが「シーラカンス」とかだったら、果たして同じように人々が反応したかどうか。
牧博士の名づけは、だから非常に巧みだったのである。
 
陰陽師』の中に、「名前」とは「呪(しゅ)」だ、と表現されているシーンがある。
その人の名前はその人をその人足らしめている一種の「縛り」であり、その名前がついているからこそ、その人はその人でいられる(だから悪い人間に名前を知られてしまうといいように支配されてしまう恐れがある)、という考えである。
この手の「名前」にまつわる呪術的な思想は東洋にはしごく一般的なもので、例えば前近代の日本において高貴な人物は本名を呼ばれない、いわゆる「諱(いみな)」の考え方や、中国の「字(あざな)」、子供にわざと酷い名前をつけて悪霊にさらわれないようにする風習など、数え上げたらきりがない。
 
庵野監督がそこまで意識したかは憶測でしかないが、私はゴジラの名づけに対しても、このような呪術的な意味を感じた。
劇中で「巨大不明生物」に「ゴジラ」と名付ける必要があったのは、ゴジラを支配してやろうとは思わないにしても、「駆除対象」として人々の感情をゴジラに向けさせるために不可欠なプロセスだったのである。
その一方で、「ゴジラ」と名前がついてしまったせいで、なんだか攻撃されているゴジラが可哀想になってしまうのも、これもまた人の感情の面白いところだと思う。
 
この「名前をつければ愛着が湧く」ということを利用すれば、日常生活はもう少し快適になるかもしれない。
試しに朝の満員電車で、ぐいぐい押してくるおばさんとか、意地でもスマホを見ているおじさんとか、そういう「名もなき人々」の行動にイラッとした時、脳内で彼らに名前をつけてみてはどうだろうか。
名前がついた途端に、少しだけ尖った感情が和らがないだろうか。それも、「オソノさん」とか「山田くん」とか、何かほのぼのさせる名前をつけてみるとなお効果的だと思う。(これは、嫌いな人間の名前などを付けてしまった場合、逆にイラッとさが増してしまう恐れがあるので注意が必要だ)
人は「名もなきもの」に対して殊更冷淡になる傾向がある。
匿名掲示板の恐ろしさはまさにそれで、実名公表しろとまではいわないが、名前がついている相手に対しては、自分と同じ血の通った人間であるということを、より意識しやすいのではないかと思う。
もっとも、名前がついていることによって、その名前を祭り上げて皆で叩く、「炎上」が起こるのも、またジレンマではあるのだが。
 
ゴジラの名前だけで話がとんでもない方向に行ってしまったが、こういう関係のないところにまで考察が果てしなく広がっていくのも、『シン・ゴジラ』が名作ゆえということで、今夏も良質な作品と出会えた幸福感を噛みしめながら一旦筆をおきたい。

愛だけが地球を救うのか?~『バケモノの子』考

細田守監督の最新作『バケモノの子』について書こうと思う。

www.bakemono-no-ko.jp

※文中では物語の核心部分に遠慮なく触れているので、未見の人は閲覧注意でお願いします。

 

この物語の主軸となるテーマは「親子」である。

 

物語は、少年・蓮(れん)が母を亡くし、父も行方不明のまま、「一族の唯一の男の子だから後継ぎとして育てたい」という「無償の親子の愛」からは対極に位置する損得勘定で彼を引き取ろうとしている親類から逃げ出し、渋谷の街を彷徨うところから始まる。

一方、バケモノの街・渋天(じゅうてん)では、トップである宗師が突然引退すると言い出し、猪王山と熊徹という二人の猛者の間で跡目争いが勃発する。

多くの人に慕われ、人品共に申し分ない猪王山とは対照的に、熊徹は実力はぴか一だが粗暴で弟子一人居ない孤高のワンマン。しかし、宗師になるためにはどうしても弟子をとらなければいけない。

そんな熊徹が面白半分に拾ったのが先述の蓮少年というわけである。

彼は蓮に「九太」という名を与え、以降師弟であり親子であり口さがない悪友でもあるような、「疑似家族」の形で寝食を共にするようになる。

最初は他に行くところがないからと渋々弟子になったような九太であったが、ライバル・猪王山に比べて人望がまるでなく、天涯孤独である熊徹の身の上に自身を重ね、自分も彼のように強くなりたいと志すようになる。

一方、熊徹は今まで独りで好き勝手やってきた分、人に何かを教えるということがまるで出来ない。すぐ癇癪を起こしては投げ出してしまう。ところが見よう見まねで自分に追いつこうとする九太の姿に、だんだん教え育てることの喜びを見出すようになる。

そうして二人は師弟として共に切磋琢磨し合うことで、周りの人間が驚くほどの成長を共に遂げるようになる。

 

ここまでは、「親子の成長物語」の王道を行っている。

子供は子供で、血の繋がりどころか種族の違いすら乗り越えて「親」なるものを見出すことで成長するし、親は親で、子を「育てながら、育てられる」という形で成長を遂げる。

 

途中、人間の世界の少女・楓と出会って人間界の智慧に触れ、また行方不明だった実父も見つかった九太(蓮)は熊徹のもとを去り、人間の世界に戻ろうともする。

だが、猪王山との宿命の対決の時に九太は熊徹を見守り、魂は共に戦うことで精神的に熊徹を支え、ついに熊徹は猪王山を打ち倒す。このシーンは実に感動的である。今まで「親も師もなく」「たった独りで強くなった」それゆえに「誰かを守る強さは持たなかった」(=人の上に立つ器ではない、まして宗師は務まらない)とされていた熊徹が、九太という無二の弟子でありパートナーを得ることで最強の剣士になるのである。

ところが熊徹は、猪王山の長男・一郎彦が、父を勝たせたいと思うあまり、背後から投げつけた剣によって倒れてしまう。実は一郎彦は猪王山の本当の息子ではなく、猪王山が人間界で拾って、密かに育てていた人間の子であった。父・猪王山を慕い、いつか父のように立派なバケモノになりたいと思っていながら、一向にバケモノとしての特徴が現れない自身に焦り、その結果心に闇をため、ついに一郎彦は闇に飲まれてしまう。(この世界では人間はその肉体の脆さを補うために心に「闇」を宿すとされており、それはバケモノの世界では危険物として扱われ、ゆえに人間をこの世界に住まわすのは禁忌とされている)

 

この闇堕ちした一郎彦と九太の対決が物語最大のクライマックスになる。そしてこの九太を助けるために熊徹は宗師としての地位を捨て、九十九神に転生して九太の「胸の中の剣」になる。

これによって熊徹は九太と二度と会えないことになるが、彼はいつも九太に寄り添い、見守ることが出来るようになる。そして人間が持つ「心の闇」を克服し、「全き剣士」として生きることが出来るようになったのである。

自分勝手で天涯孤独のバケモノであった熊徹が、血の繋がりもないたった一人の人間の少年のために、ここまでのことが出来るようになったのである。

なんという友愛。なんという献身。実に感動的な親子の物語であった。

 

……なんてことには、当然ならなかった私は、声を大にして言いたい。

「ちょっと待てよ」と。

 

これが「親子の物語」であるなら、描かなければいけないもう一組の親子を忘れてはいないだろうか。

猪王山・一郎彦親子である。

 

これまで、熊徹とライバルの猪王山はことごとく「対照的」に描かれてきた。

猪王山が礼儀正しく人格者なら、熊徹は粗暴で下品。猪王山が大勢の弟子を抱えているのなら、熊徹は一人の弟子も育てられないワンマン。猪王山に二人の息子が居れば、熊徹は天涯孤独。

ところが強くて人格者で完璧な猪王山だが、同じ「バケモノの親」としては熊徹とは対照的に「失敗」してしまう。

禁忌を冒して堂々と人間を弟子にしていた熊徹とは逆に、猪王山は息子が人間であることをひた隠しにし、何となれば当の息子にすらその事実を隠してバケモノとして育て続ける。

それは「息子のためにはそれが最良」と考えた猪王山の親心でもあっただろうし、品行方正・清廉潔白で通っている自分が、「人間を育てている」なんていう掟破りを行っていることを知られたくなかった、という、彼自身のエゴも含まれていただろう。

しかしその結果、息子はその「歪み」を独りで抱え込み、心の闇に飲まれてしまうことになる。これは不幸が重なったこととはいえ、親である猪王山に責任があることは間違いない。

 

ところが、である。

この猪王山、ただひたすら意気消沈しているだけで、息子の失態と何ら向き合っていないし、事態収拾に何の尽力もしていないのである。

 

本来、これは猪王山・一郎彦親子の感情の齟齬から生じた問題であるのだから、その「オトシマエ」をつけるのは父である猪王山の当然の役目であるし、もしこれが「親子の物語」であるのなら、このような「失敗」にどう対処していくのかも描く必要がある、というか、むしろそこが一番重要である。

しかしながら猪王山はその後、徹夜で付添でもしていたのか息子の枕辺で突っ伏している姿が描かれただけで、二人の間にどういう対話が為されたのか、人間であることを隠して育てられた(言うなれば騙されていた)一郎彦は父を許して受け入れられたのか、などは一切描かれていない。ただひたすら、「熊徹の献身」と「九太の成長」だけがウツクシク描かれてめでたしめでたしと強引に結ばれているのである。

これでは、「親子の物語」としては誠に中途半端であると言わざるを得ない。

 

世の中はままならぬことばかりである。

全ての親が子供を無条件で愛せるわけではないし、全ての子供が親を慕うわけでもない。

また、たとえ精一杯の愛情を降り注いだとしても、その愛情が全て子供にとってプラスに作用するわけではないし、むしろ弊害になってしまうことは沢山ある。

猪王山のような人格的に優れた人物が、子供にとっても理想的な親であるかといえば必ずしもそうではない。むしろ熊徹のような野放図な人間の方が、悩み苦しみながらも良き親として成長していくこともある。

「親子」の問題は誠に複雑で、理想や綺麗事だけでは語れないのである。

 

ところがこの『バケモノの子』で描かれた親子は終始一貫「綺麗事」である。

実母だけでなく実父も当然のように蓮少年を愛していたし、母実家の妨害もあったにせよ子供の時から実質ほぼ「ほったらかし」にされていた実父に対して、蓮自身は何ら悪い感情を抱いておらず、「父」として当然のように受け入れる。

一郎彦は闇堕ちしたにせよ根底にあったのは父への深い敬愛であるし、熊徹に至っては親子でもなかなかやってのけられないような献身を軽々とやってみせる。

絶対的な前提が「親子は慕い合うもの」「親は子に対して、あるいは子は親に対して、無条件で何でもしてあげようとするもの」などという、使い古された親子観を地で行っている。

そうして、それに伴う弊害は完全に「スルー」されている。猪王山・一郎彦親子の決着がまるで描かれなかったのは、「例外を認めない・認めたくない」意思表示にも見えて、見ていて窮屈な思いをした人も多いのではなかろうか。

 

「愛は地球を救う」という言葉がある。美しく耳障り良い理想の言葉だ。

しかし私は、「救わない愛だってある」ということを敢えて言いたい。毒親の愛情も、DV加害者の暴力も、全て「愛」という名目で行われることがある。「愛だから」拒絶できない、「愛だから」逃げられない、そういう風に愛に押しつぶされ、愛に殺された人達も大勢いる。

 

一郎彦の振る舞いだって、父・猪王山への愛ゆえだった。だからといって、渋谷を燃やし、大勢の人を吹っ飛ばした罪が消えるわけではない。(そのため、結局みんな軽傷で済んでいた、というご都合主義な展開は実に興ざめだった)

猪王山が一郎彦に事実を伝えなかったのも愛ゆえだ。だからといって、成長の過程で一郎彦を苦しめた事実が消えるわけではない。

熊徹・九太親子のように、うるわしく結実するだけが愛ではない。時に闇に変質し、それこそ怪物にすら姿を変えるのが、愛というものの厄介さだ。

その厄介さを避けて描いたところで、本当の愛を語ったとは言えない。

 

エンドロールが終わって周りの観客が感動の旨を口にして立ち去る中、私は大暴れの悪夢から目覚めた後の一郎彦の空虚な瞳を思い出し、独り暗澹としていたのである。

『エイジハラスメント』という奇妙なドラマについて

テレ朝の今季夏ドラマ『エイジハラスメント』について書こうと思う。


このドラマはまだ第二話が放映されたばかり、という序盤も序盤なので、今後の経過次第では感想も変わってくるとは思うが、とりあえず今まで見て感じたことを述べようと思う。

『エイジハラスメント』は近年よくある、社会問題の一つを取り上げそれを主眼に据えた「社会派ドラマ」であると同時に、現実の我々が言いたくても言えない、やりたくてもやれないことを主人公に肩代わりしてもらう、いわば「カタルシス系ドラマ」の体裁もとっている。
しかし、前者の特徴である社会問題(この場合はエイジ・ハラスメント)に関しては、やや現実離れし過ぎるレベルで存分に強調しているとは思うが、後者のカタルシスについてはどうにも弱い。
というか、もどかしい。
出そうで出ない、出たけど残便感がある、視聴後の爽快感がまるで無い、そんな感想を否めない。
これはなぜなのだろう。以下に分析してみた。

①主人公が微妙

「カタルシス系ドラマ」の最大にして最低限の条件は、まず「主人公は正義の味方」であることだ。
完全無欠とまでは言わなくても、主人公の考えは正しく、魅力的で説得力がなければいけない。そうでなければ、反対派や悪役をやり込める時に視聴者がカタルシスを得られないからだ。
そのため主人公にはある程度以上のスキルや才能が求められ、何か一つのことについて抜きん出た天才であるとか、文武両道に長けたスーパーマンであることが多い。
例えば『半沢直樹』の主人公・半沢は、優秀な銀行マンで部下からの信頼は篤く、家庭では妻の尻に敷かれがちながら概ね良き夫である。正しく生きる、優秀で理想的なサラリーマン、それなのに上司から不条理な出向を命じられたりする、だから「頑張れ半沢!」と視聴者は思うし、上司をやり込めた時は「よくやった!」と喝采を浴びることになる。ところがこれ、もし半沢がルーティンもこなせないようなボンクラだったら、説得力の欠片もなくなってしまうのである。

さて、一方このドラマのヒロイン、武井咲演じる吉井は、商社の新入社員で、バリバリのキャリアを目指すつもりだったのにいきなり総務部に配属され、雑用ばかりをさせられる日々を不満に思っている。正直なところ、この設定も正義の味方としては「微妙」である。ここまで大きな自社ビルを構える企業の総務部は、電球の取り替えみたいな仕事はビルメンテの人間に任せるだろうという現実感の無さもそうだし、そもそも「雑用なんてキャリアのやることではない」という差別意識を不愉快に思う視聴者もあるだろう。
しかしそこは「雑用だって立派な仕事である」と、ヒロインが気付いていく成長物語としての演出なのではないかと、はじめは思ってた。

ところがこの吉井ちゃん、度々このような「新人としてそもそもどうなんだろう」という言動を繰り返している。
社屋のエレベーター内で他の社員も居るなかで突然果物を頬張ったり、先輩に「お疲れ様でした」と挨拶されてるのにぶっきらぼうに「はい、疲れました」と返すエピソードなどは、主人公の豪胆さを表現したのかもしれないが、単なる「非常識な新人」として映ってしまう。
曲がりなりにも与えられた自分の仕事を「雑用」と蔑んで嫌々こなし、挙げ句の果てに「もっとやり甲斐のある仕事をください」と上司に訴え、それが聞き入れられなければ同じことをその上の上司に直訴する。
稲森いずみ演ずる大沢課長の「あなたはまだ入社四ヶ月なのに何を焦ってるの?」や「もっと周りを見て」という言は至極尤もである。

そのような非常識エピソードが積み重なってるせいか、クライマックスの「40人分のお茶汲み」にブチ切れるシーンも、「自分の頭のハエも追えないくせに文句だけは一人前の新人が、突然ブチ切れて先輩に怒鳴り散らす」ようにしか見えず、見ていて清々しさが皆無なのである。
続く二話目はまだ、ブチ切れる相手が「若い女にやに下がり、年老いた妻を冷遇する」クズい不倫男であったため、視聴者の共感は得やすいかもしれない。それでも、主人公がどの立場から憤っているのかがよくわからず、やはり「唐突にブチ切れた」という印象が拭えなかった。

何よりこの主人公、「行動理念」というものがまるでハッキリしていない。
当初は「商社のキャリアになってバリバリ仕事したい」とか「苦しい実家を助けてあげたい」とか、わりと型通りの志がほの見えていたが、意に染まぬ部署に配属されてその志もボヤけてしまったように思うし、一話目で退職に追い込まれた先輩の仇を討ちたいというわけでも、「職場のハラスメントと断固戦う」でも別になさそうである。
このような勧善懲悪の形式をとった「カタルシス系ドラマ」においては、主人公の行動理念や立ち位置というものが最も重要なのだが、それがイマイチ不明であるゆえに、折角のクライマックスシーンも理由なくキレてるようにしか見えないのである。
これは後の展開で確立していくことを是非期待したい。今の人物像のままでは、ヒロインとしてあまりに貧相である。

②課長のキャラがブレブレ

勧善懲悪形式のカタルシス系ドラマの魅力を支える大きな柱の一つとして、「悪役の魅力」というのも欠かせない。
またしても『半沢直樹』を引き合いに出すが、あのドラマは悪役がものの見事に憎たらしくしかしコミカルに描かれ、主人公が彼らをやり込めた時は胸がすく思いがすると共に、その反応の滑稽さゆえに後味の悪さも残らない演出になっていた。
逆に社会派ドラマにおいては、「悪役」は悪役であって悪役でない、という描き方をするのが優れたドラマの要件である。なぜなら現実の社会問題は複雑で、善悪の区別が容易につけられるものではなく、仮にそのような色分けを安直にしてしまえば、ドラマ自体が軽薄なものになってしまうからだ。
近年、ハラスメント問題を描いた社会派ドラマとして非常に優れていた『問題のあるレストラン』においては、便宜上「悪役」として描かれた男達の事情も後にきちんと描かれており、対立ではなく共存を望む主人公達の願いが際立つ演出がされていた。

さて、ここで『エイジハラスメント』の大沢課長(稲森いずみ)に立ち返りたい。
正直、彼女のキャラは「ブレブレ」である。二話目を見終わった今も、私には彼女の人物像というものが掴めていない。これが演出だとしたら、通常一人のキャラに一つないしは二つ位しか特徴を与えないテレビドラマにおいては、非常に斬新である。
大沢課長は始め、繊維二課の優秀な社員だったにも関わらず、後輩の男子社員に課長として抜かれ、畑違いの総務課長に飛ばされるという、まさに「エイジハラスメント」の被害者として登場する。仕事面では冷静沈着な人でありながら、悩める女性キャリアという側面を持つ人物、というふうに描かれていくのだと、私は思った。
ところが、ヒロインが配属されていきなり「若いというだけで憎たらしい」という謎の器の小ささを発揮し、しかも抜かれた後輩男子と実は不倫関係にある、という生臭さ。ああ、「ヒロインをいじめる悪役」として描かれるのかな、と思い直した。
ところがその後もヒロインをきちんとフォローするし、仕事の上ではしごく真っ当な上司として振る舞い続ける。でも反面では「痛い」というワードを異様に気にしたり、独身のお局様に対して「既婚だから自分はマシ」と安心してみたり、若いヒロインに対して年老いた自分を感じて焦ってみたり、結局あんたの立ち位置どこやねんという感じで第二話が終了してしまった。

おそらくこれは、社会派ドラマにおける"悪役"が持つような「悩める女性」「虐げられる女性」「(期せずして)加害者になってしまった女性」などという側面と、カタルシス系ドラマにおける「いじめ」「嫉妬」などの"悪役"要素を全部トッピングした結果、このようなちぐはぐな人物像が出来上がったのだと思われる。
こちらも今後彼女がどういうスタンスで行くのか確定すれば、ドラマがぐっと面白くなるはずである。

③決め台詞がダサい

勧善懲悪形式のドラマにおいてはしばしば、主人公がいわゆる「決め台詞」を放つことがある。
ドラマ自体がヒットすれば流行語大賞にすらなる位であるから、この「決め台詞」は単なる口癖の域を超え、主人公の人となりを一発で表し、なおかつ物語のアクセントとなるような、キャッチーでハイセンスな言葉選びを求められる。
例えば『半沢直樹』の「やられたらやり返す、倍返しだ!」や古いところで『家なき子』の「同情するなら金をくれ」辺りはその代表格である。『ごくせん』のヤンクミのように、髪をほどく仕草と効果音がその代替をすることもある。

それを鑑みてこの『エイジハラスメント』を改めて見ると、吉井は確かにキレる直前に決め台詞らしき口癖を吐いている。

「てめえ、五寸釘ぶち込むぞ!」

しかしこれ、決め台詞としては正直「0点」である。

一応これは彼女の郷里の父より教えられた、「逆境に負けずに踏ん張れ」という心意気を表す言葉なのであるが、"五寸釘ぶち込む"という行為はおよそ清涼感とは無縁の「丑の刻参り」を髣髴とさせるし、それは憤怒というよりは怨嗟と呪詛のイメージであるし、単に「容赦しないぞ」というような意味にしても「五寸釘をぶち込む」はやり過ぎである。単なる傷害予告にしか聞こえない。
このような過激な台詞を、端正な顔の可憐な娘が吐く、というところに意外性を持たせようとする演出なのかもしれないが、正直何の面白みも無いし、脈絡も無いので台詞だけ浮き上がってしまってる印象だ。結局ヒロインが「唐突にキレてる人(しかも品が無い)」になってしまってるのである。
私は内館牧子氏の原作は未読であるが、あれがドラマオリジナルの演出だとしたら、失敗だと言わざるを得ない。それこそ台詞無しで効果音挿入だけで良かったのではないか。


以上、私がこのドラマにカタルシスを得られない、三つの理由を述べた。

冒頭で私は「このドラマはカタルシス系としては弱い」と述べたが、実は「社会派ドラマとしても中途半端」という印象が拭い去れない。
「エイジハラスメント」という重要な社会問題を扱っていながら、人物考察やドラマ全体の問題提起が浅薄であり、見ている内に「結局エイジハラスメントって何なの?」と首を傾げてしまうことがしばしばだ。
おそらく中途半端に勧善懲悪的な演出を入れてしまっているせいで、キャラそれぞれの掘り下げなどが出来ていないことが原因と思われる。
しかし、カタルシス系としても決め台詞や悪役が今ひとつキマってないため、痛快さがない。
結果、どっちつかずの方向性不明なドラマになってしまっているというのが、今のところの印象である。

果たして今後の展開で社会派として化けてくれるのかーー例えばパワハラ被害者の伊倉(杉本哲太)や男性のマタハラ問題を抱えた佐田(要潤)などの物語がきちんと描かれるのか、今のところギャラリーでしかない女子社員達の事情は描かれるのかーー、もしくはカタルシス系で突き抜けて社内ドロドロバトルが勃発するのか、はたまたこのまま中途半端路線を突っ走り、安直にヒロインがキレて終わるだけのドラマとして終わってしまうのか、是非とも注目していきたいと思う。
個人的には、元NHKアナウンサー・山根基世氏の静謐なナレーションを無駄遣いしてくれないことを、切に願うばかりである。

闘争の果てにあるもの〜問題のあるレストラン考

超今更ではあるが、前回のクールで木曜10時からやっていたフジテレビのドラマ『問題のあるレストラン』について書こうと思う。

『問題のあるレストラン』は『Mother』や『それでも、生きてゆく』など、社会派のドラマも手がけると同時に、『最高の離婚』などに代表される、軽妙な台詞回しと緻密な人物描写などでも定評のある坂元裕二氏の脚本になるものだ。
今回はシリアスな「社会派ドラマ」の側面と、コミカルな「人間ドラマ」の側面をバランス良く併せ持ち、重過ぎずかつ軽過ぎもしない絶妙なドラマに仕上がっていたと思う。

『問題のあるレストラン』はそのタイトルの通り、各々が内に「問題」を抱えた女性達がレストランを経営する物語であり、彼女達はなおかつ周りから「問題児」として社会から爪弾きにされた女性達でもある。
彼女らの問題は例えば、
職場でのパワハラ&セクハラであったり、
夫からのモラハラであったり、
毒親からの搾取であったり、
セクシャルマイノリティとしての苦悩であったり、
それぞれが、味わったことの無い人達にはおよそ「想像出来ない」あるいは「なかったことにされている」、だが確実に社会に存在している問題である。

このドラマは、予告編で「6人の怒れる女達が立ち上がる!」などと煽られていて、現にそれらの問題を抱えた女性達が、自分を虐げた男性達に対して宣戦布告をしてるストーリー、のように見える。
それゆえに、フェミニズム的なものを片っ端から叩かずにはおれない人達に叩かれたり、一部おじさま達の不興を買ったりもしていたようである。

しかし、それは大きな勘違いであると私は感じた。

テレビドラマとは、色んな人達から共感されてこそ成り立つメディアである。
だからこそ、そこに描かれるのは、男女の恋愛だったり友情だったり親子の愛情だったり、そうした至極ありふれた、だが人々が求めずにはいられない「多数派の幸福」を描く物語になりがちである。

勿論そうした物語は一定数必要だ。
だが、そこに共感出来ない人達を照らす眼差しが、この『問題のあるレストラン』には籠められていた。

結局このドラマの中では、「問題」は何一つ解決しない。
三千院さんは夫との離婚調停が終わらないし、千佳ちゃんは両親と何ら和解してないし、五月のセクハラ問題すら決着を見ないまま、たまこのレストランは閉店に追い込まれる。
そこに視聴者のカタルシスを得るような「大団円」などは一つも用意されていない。

でも、それはそれで「正しい結末」なのである。現実の問題はそんなに簡単に片付くものではないし、これはむしろ「こういう問題がある」と提示したことが重要で、ドラマ内での解決が意図ではないからだ。

このドラマは、「こういう問題がこの世にはある。だから目を背けないで」と問い掛けることこそが、大いなるテーマである。

第一話で、ヒロインのたまこは言い放つ。

「女が幸せになれば、男の人だって幸せになれるのに!」

それは彼女の最低限の願いであり、最大の望みでもあった。
「男死ね」でも「男滅びろ」でもない。
「男も女も、共に幸せになろう」こそが彼女の本懐であり、このドラマのメインテーマでもある。

最終話において、たまこは夢を見る。
そのレストランでは仲間の女性達も、今までの話の中では(形の上では)敵だった男性達も、一緒にチームとなって、理想のレストランを作っている。
「いい仕事がしたい」冒頭に出てきたこのセリフが、なんの含みも飾り気もない、彼女の真の願いであったことが明らかになるシーンである。

このシーンを見た時、私は涙があふれて止まらなかった。
とかく人々はこのテの話題に対して「男vs女」みたいな構造を思い描きがちであるけれど、彼女らが本当に望んでいることは、「男に取って代わり女が支配する世界」なんかでは勿論無く、ただ皆が仲良く手を取り合う世界であると。それを実現したいがために、結果的に戦うための武器を手にしなければいけない人達が、少なからず居るということ。そしてそのような物語を、仮にも民放キー局で、男性の脚本家が描いてくれたということ。
そうしたことに対する悲喜交々の感情が胸に迫ってきて、私は何とも言えない深い感動に打ちひしがれたのだった。

このドラマを単に、「女に媚びへつらうだけのドラマ」とだけ見る人もいたかもしれない。
でも、このドラマの中で最も力を入れて描写されていたのは、虐げられる女達でも虐げてる男達でも無く、「厚切りベーコンのポトフ」である。
あのあまりにも美味そうな「厚切りベーコンのポトフ」によって、幸せにしたい人達は誰か。それは男でも女でもない、美味しいものを食べたいと願う全ての人達である。
かつてとある牧師が切々と語ったように、「虐げた者も虐げられていた者も、分け隔てなく食卓につく」世界を望む心が、そのポトフには宿っているような気がしてならないのである。

生きることはどうしてこんなに辛いのか〜『マーキュリー・ファー』考

世田谷シアタートラムで現在上演中の、『マーキュリー・ファー』を見て来た。


『マーキュリー・ファー Mercury Fur』 | 世田谷パブリックシアター/シアタートラム

 
脚本はフィリップ・リドリー、演出は白井晃
期待通り、素晴らしい作品だった。
 
フィリップ・リドリー&白井晃の組み合わせで上演された芝居を見たのはこれが初めてではない。
最初に見たのは2002年、『ピッチフォーク・ディズニー』だった。
忘れもしない、山本耕史さんの輝くばかりの演技を初めて見たのもこの芝居だった。
 
内容は、時代も国もどこかよくわからない家に、大人の見た目なのに子供のような言動をしている兄妹が住んでいて、二人は謎かけのような会話をしている。そこに謎の美青年コスモ・ディズニーと、異様な覆面を被ったピッチフォークという男が現れる。珍客二人によって兄妹の日常が徐々に狂っていくという筋立てになっているが、結局この兄妹が何者でこの家がどういう状況なのか、そして珍客二人の正体なんかも、最後まで明確にはされない。
リドリーはこういう、どこか抽象的で、でもその分深読みの余地がある本を書く人である。
 
『ピッチフォーク・ディズニー』は、まだ10代だった私の心に強烈な印象を焼き付けた。
性的な目で妹を見ようとするコスモや、それに対する兄の嫌悪と恐怖、覆面を取った時のピッチフォークを見た時の、主人公達の悲鳴、そういった、どこかざらっとした手触りの描写が、真に迫って胸を打ったのである。
 
そして今日、およそ十数年ぶりにリドリーの芝居を見た。
内容は、『ピッチフォーク・ディズニー』よりはかなりわかりやすくなっていた。
 
舞台は、爆撃が日常化し、略奪と暴力が横行するようになってしまった、荒廃したイギリスのどこか。若者達は「バタフライ」と呼ばれる麻薬のようなもので、束の間の夢を見て乱世の苦悩を誤魔化して生きている。
そこで主人公の兄弟が、「パーティ」の準備をしており、二人はその準備を巡ってあれこれ問答をしている。
だがその「パーティ」とは「パーティプレゼント」と呼ばれる子供を「パーティゲスト」である権力者が己れの欲望を満たすために殺す、という残虐極まりないものだったのである。
 
直接的な描写はないものの、そこに登場するのは目を覆いたくなるような暴力と悪意の応酬だ。
その情け容赦のない内容ゆえに、リドリーは「こんな残酷な話を書ける人とは付き合えない」と、友人から絶縁までされてしまったという。
 
しかし、一見センセーショナルな暴力描写の根底に流れているのは、リドリー自身がこの世界の理不尽さに覚えている深い憤りのように思えた。
 
主人公の兄弟達は、確かに残酷な宴に加担しているが、宴の生贄にされる子供はそれ以前に、両親を目の前で殺され、薬漬けでボロボロになっていたりする。
兄弟自身も、戦争により精神を病んだ父親に殺されかけ、母親がそれを庇って発狂しているという経歴を持つ。
結局、どう足掻いても地獄しか待っていない主人公達の状況は、いっそ死んだ方がマシかもしれないとすら思えてくる。
 
それでも、主人公は叫ぶ。
「せめて死ぬこと位は自分で選びたい」
と。
爆撃の火花が降る中、せめて火薬や兵士の手にかけるよりはと、この手で愛する弟を殺そうとする兄の姿に、私は涙を禁じ得なかった。
 
私が『ピッチフォーク・ディズニー』に感じ、更に『マーキュリー・ファー』に感じた共通のテーマ、それは「なんてこの世界は生きづらいんだろう」というシンプルな、だが生きている限り永遠に続く問いだった。
そしてこれは、私が好きな多くの物語に通奏低音として流れているテーマでもあった。
 
進撃の巨人』しかり。
ゲド戦記』しかり。
もののけ姫』しかり。
私的今季ベストドラマである『問題のあるレストラン』しかり。
 
「生きていることはこんなに辛いのに、それでもなぜ生きていかなければならないのか」
「それは死ぬこととどちらがマシなのか」
 
そうした問いは、常に私が自分に繰り返しては、それでもその苦しみすら、生きていなければ感じないのだから、と思い直して生きている。
そういう苦しみを感じたことがある人が多いからこそ、きっとこうした物語はいつまでも人類の間で生まれ続けていくのだろう。

バカがバカで許される国~落語について

二日連続で落語を見て来た。

 
落語をほぼ初めて見た人の感想に「すごく癒された!」というのものがあり、私はとても新鮮な驚きを覚えた。
 
そうか、落語は癒されるのか。
 
それは、中学生で落語に出会って十数年、私がとうに意識するのを忘れていた感覚だった。
 
落語は確かに、「力を抜いて見ていられる」芸能だ。
何の予備知識もなく、ただぼーっと見ているだけで、向こうが気持ち良い心持ちにしてくれ、笑わせて楽しませてくれる。
それは確かにリラクゼーションの一種だろう。
 
実際は頭からっぽどころか、ものすごく想像力を働かせなければいけない(何しろ着物着たおじさんが右向いたり左向いたりして喋ってる独り言が、様々な人々の会話になるのだから)のではあるが、脳みそはフル回転しているはずでも、その意識は殆ど感じ無い。
達者な演者の落語などは、いつの間にかその「世界」へと引き込まれて遊ばされてるような、トリップみたいな感覚さえ得られる。
そして終わった後は、心地良い疲れだけが残る。
 
そしてもうひとつ、落語の癒されるポイントとして、落語が「否定しない芸能」であることも挙げられると思う。
 
かの立川談志は、「落語は業の肯定である」と提唱した。
私はもっとそれを平たく解釈してて、要するに落語は「人間がバカでいることを許された世界」だと思う。
 
確かに数多くの演目の中には、権力者への皮肉や、虐げられた民衆の悲哀、みたいなものを読み取れる噺もあるかもしれない。でも、基本的にそれは主題では無い。
 
落語の世界では、癇癪持ちもケチも粗忽者も強情者も、特に否定も非難もされておらず、ただあるがままに描写されて、物語を押し進める記号として使われている。
「こういう人間になってはいけない」という教訓などは微塵もなく、「こういうのもああいうのも全部人間だよね」というシンプルなメッセージだけが、根底に粛々と流れている。
 
落語の世界に出てくる人間は、だいたいの場合、昔の人間だ。
時代は江戸から明治ごろ。職人、商人、武士、時々無職。
だけど彼らの笑いや悲しみや驚きは、今の我々が持っている感覚と大差は無い。
だからそれを見た人間は、登場人物達の悲喜こもごもに勝手に自分や周りの人間を重ね、「こういう馬鹿な奴っているよなぁ」と笑ったり、「こんな馬鹿な自分でも、生きていて構わないのだ」と思ったりする。
 
人間はバカなものだと思う。
いや、もっと言うと、「人間はバカである場が必要な生き物だ」と思う。
 
それは、かつてコミュニティに存在した「ハレの場」―要するに祭りなんかの狂乱が、その役割を果たしていたのだろう。
今は、テレビ番組やSNSなどが、その役割にとって代わりつつある。
インターネットで誰かのことを大勢が執拗に叩くことを「祭り」と称するのも、通常なら理性や良心などによって抑えている感情を解放し、我を忘れて皆で踊り暴れる「狂乱」の場であるからだろう。
勿論、誰かを殺すような「祭り」は推奨されるべきではないが、人間は日常で少しずつ溜まっていったストレスその他を何かで爆発させることで、正気を保つ生き物であることは否めない。
 
そういう意味では、落語は最も平和な「祭り」である。
誰を傷つけることも、否定することもない。ただ「落語」という異世界が生み出す疑似体験の中で、日頃の負の感情を浄化して、笑いに昇華する。
 

落語はそうしたエンターテイメントだと思うのであるが、まあ、あまり詳しく分析するのも野暮な話なのでこの辺でやめておく。

題詠短歌企画~どうせ詠むのなら素面でも 001-005

ぜろすけ (id:zeromoon0) さんが参加された「題詠短歌」が、

酔うと短歌を詠む謎の癖のある私にはうってつけの企画だったので、

喜び勇んで参加することにした。


題詠短歌企画『仮置き倉庫に閉じ込められた』 001-010 - 無要の葉

企画の詳細はこちら。

題詠blog2015

 

ところが。

元の題詠企画はトラックバック機能が必要らしい。

そして調べたらはてブにはトラックバック機能が無い!

ということで、急遽題詠企画用にgooブログ開設しました。

なので、題詠短歌はこちらに投稿いたします。

よろしければお付き合いください↓

小暗一人百首

 

あと、こちらもぜろすけさんの真似で申し訳ないのですが、過去のお題で練習してみることにしました。

それはこちらのブログでやります。

たくさん短歌が詠めるのうれしいな!

 

題詠blog2014

001:咲

くれないに重くうなだれ咲く椿

かじかむ指を湿らす吐息


002:飲 

飲むほどにほどける心 誰ゆえに

琥珀の海に氷走らせ


003:育

慈しみ育んだのは自分だけ

腐る蕾を黙って摘む指 


004:瓶

酒瓶を歪めて見える故郷の灯

 ゆらめく日々を過去に捨て置く


005:返事

返事などとうに来ないと笑いつつ

受信確認止まらぬ聖夜