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海風想

つれづれなるままの問わず語り

名前のない怪物ー『PSYCHO-PASS サイコパス』考

劇場版『PSYCHO-PASS サイコパス』について書こうと思う。
内容について触れている記述があるので、未見の方はネタバレ注意。


PSYCHO-PASS サイコパス』シリーズの実質的な主役は、狡噛慎也だと私は思う。
(そのためTVシリーズの2期は、黄門様の出てこない水戸黄門のように味気なかったのは否めない)

TVシリーズ1期は、狡噛と、その対をなす槙島聖護という存在があり、この光と陰のような二人の対立が大きな見所の一つであった。

劇中でしばしば触れられてることではあるが、この槙島と狡噛はその性質において幾つかの共通点がある。
それゆえ、狡噛は誰よりも槙島の心理を把握し、次のアクションを読み取り、最後は彼自身の手で槙島を追い詰め、この世から葬るに至る。

この、「槙島との共通点」というモチーフは劇場版でも引き継がれており、狡噛は加わっていたゲリラの人間達から崇拝に似た敬愛を集めている。まるでかつて、槙島の思想に心酔して人々が集まったかのように。
狡噛本人は、それを必ずしも喜んでいないが、彼が意図せずとも、彼の言動は他者を惹きつける不思議な求心力を孕む。いわゆる「カリスマ性」というものだ。
それに気付いた時、やがて自分も槙島と同じ道に堕ちるのでは無いかという不安を抱いたのだろう。
狡噛は、その最大の理解者であり、最も心許す相手でもある常守朱に問う。
「お前も、俺を槙島と同じだと思うのか?」
朱はそれを一部では肯定しつつ、こう返答する。
「でも、狡噛さんは槙島と同じようにはなりませんよ。なぜなら、あなたには他人を支配したいという欲が無いから」

ところが、この後狡噛はひょんなことから傭兵の一派に捕らわれ、拷問を受けながら「俺達の仲間になってそのカリスマ性を活かさないか?」と誘われる。
勿論狡噛はそれを拒絶し、「仲間になる位なら死んだ方がマシ」と答えるのであるが、これが仮に、朱の命と引き換えの取引だったりしたら、果たして狡噛は拒絶出来ただろうか。
ここに、狡噛が持っている槙島と同じ、「カリスマ性」というものが持つ本当の危険性が語られているように、私には思えた。
「カリスマ性」とは、使いようによって独裁者にも救世主にもなれる諸刃の剣である。
そしてそれを生まれながらに持った人間は、本人にどんなにその意思がなかったとしても、その性質を悪用され得る可能性を常に持つということだ。

「群衆を惹きつける才能」というのは、古今東西問わず、どこか似通う。

最近、CMにマルティン・ルーサー・キング牧師の演説が使われているが、この演説は非常に感動的で、何より人の心を奮い立たせる不思議な力を持っている。
英語なぞ殆ど聴き取れない、一日本人の私ですら、そう思うのだ。ましてや、これを目の前で聴いた、ネイティブの人達の感動は計り知れない。

ところが、この演説と非常によく似た演説を私は知っている。
ナチスアドルフ・ヒトラーの演説である。

片やホロコーストを引き起こした独裁者、片や人種差別撤廃運動に奔走した人権活動家。
比較したら大勢の人から非難を浴びそうであるが、この二人の言葉が持つ、得体の知れない求心力は、二人が同じ「カリスマ性」という性質を持っている証では無いだろうか。
要は、その力を誰のために、どういう目的で使ったかで、大きく二人の運命が異なってしまったのではないだろうか。

私は、「カリスマ性」とは一種の「怪物」だと思う。
人間の力で御することが非常に難しく、使いようによっては多くの人を救うが、その一方で、多くの人を殺すこともある「怪物」。

その「怪物」の運命を左右する、重要な要素は三つある。

まずは、本人の性質。
本人が「怪物」を扱えない、もしくは悪用するような人間であれば救いようがない。
次に、本人の生きた時代。
時代の空気が「怪物」を暴走させる鞭となることもあれば、「怪物」が眠ったままで済む時代もある。
そして最後に、周りの人間。
本人にいくらその気がなくとも、その「怪物」を暴走させようする人間が周りに居れば、即ち「怪物」を御すことは困難になる。

ここで狡噛と槙島に立ち返ってみると、二人は同じ時代に生きている。
だが、その性質と、周りの人間には大きな違いがある。
特に狡噛が、「こちら側」に踏みとどまれたのは、常守朱を筆頭に、彼の内なる「怪物」を食い止める多くの人間が居たことが大きい。
「怪物」をけしかける人間が群がっていた槙島とは対照的である。

劇場版の最後で、狡噛はまたどこかへと姿を消す。
自分の中の「怪物」の存在に気付き、それがいつ暴走するかわからない危険性を自覚しながら、彼はこれからも「怪物」と戦い続けるのだろう。
彼が朱から離れたのは、本当に悪意のある人間が自分を利用するために、彼女を害することを避けるためだったのかもしれない。

TVシリーズ1期のEDであった、EGOISTの『名前のない怪物』が、劇場版のEDでもあったのは、非常に象徴的である。

雑記ーいじめについて思うこと

いじめについてよく、「いじめられる側にも原因がある」と言う人がいる。

私はそれは、ある意味では正しいと思う。
「原因」とは、「ある物事や状態を引き起こすきっかけになったこと、出来事」を表す。
いじめは、ほんの些細なことがきっかけになる。
ちょっとした喧嘩から始まることもあれば、単にその人の容姿が気に食わないとか、言動がむかつく、とか、そんなことでも始まることはよくある。
それは、いじめられる側の人が違う人間であれば起こらないわけであるから、確かに「原因」は、いじめられる側にもある、ということになる。
しかし、この「いじめられる側にも原因がある」という文には、重要な続きがある。
それは、

「だからといって、いじめていい正当な理由など全く無い」

である。
いじめは重大な人権侵害であり、いかなる理由があろうとそれを行う側の方に非がある。

先日、職場でこんなことがあった。
休憩室で仲良し同士の先輩が二人、最近入った新人さんの陰口を言っていた。
嫌な光景だな、と思いつつ、私はついつい彼女らの会話に耳を傾けていた。彼女らがその新人さんを嫌う原因に興味があったのだ。
以下、彼女らの会話から拾った内容。

「距離が近い」
「どんくさい」
「デカい」
「TVを見て一人でニヤニヤしてる」
「休憩室で牛乳を飲んでいた(それ以上デカくなってどうするんだと揶揄していた)」

正直、「え?それだけ?」という実にくだらないことだった。

私もその新人さんと働いたことがある。
確かにちょっと動きがトロいとか、質問を聞く態度がちょっと変とか、そういうのはある。
でも、仕事はきちんとやってるし、色んなことを一生懸命覚えようとする姿勢もある。
慣れない職場で働き始めたばかりなのだから、多少動きがぎこちないのは仕方ないことだろう。
そして何より、決してあの先輩達に、反抗的な態度をとったりしたわけではない。
そもそも、その先輩達は彼女と殆ど一緒に働いたこともないのに、なぜあそこまで悪しざまに言えるのかと、逆に不思議になった。

おそらく、彼女達は「自分が(彼女を見て)不愉快に思った」という、ただそれだけの感情を根拠に彼女を嫌い、悪口を言っているのだろうと思う。
「陰口を叩く」という行為自体が、その新人さんの尊厳を損なうことだなんて、当然考えもしないのだろう。
あまつさえそのうち一人は、「話しかけんなオーラを出しといた」と、彼女を無視していることを公言していた。
つまり彼女達にとっては、自分の心が快適であることが、最優先される正義なのだ。

確かに、「この人、何か苦手だな」ということは誰しもある。
そういう人とまで、博愛主義的に全て仲良くしろ、なんていうのは相当に難しい。
だから、傍にいて不愉快に思う人とは付き合わない、距離をとる、そうした権利は誰だってあると思う。
だけどそれ以上踏み越えること、例えば露骨に無視したり、悪口を言ったり、暴力を振るったり、それらのことをやった瞬間、それは単なるいじめになる。

こういうことをしてしまう人達に足りないのは、ちょっとした「想像力」だと思う。
相手にしたようなことを、自分がされたらどんな気持ちになるか。
ただそれだけのことを、自分の気持ちはとりあえず端に寄せて、ちょっと考えてみるだけでも、世界はずっと違って見えるはずである。

誰も嫌いにならずに生きて行くことは難しい。
でも、誰もいじめずに生きて行くことは可能である。

それが大人というものだろうと、私は思うのであるが、違うのだろうか。

「毒親」の物語ー『かぐや姫の物語』考

高畑勲監督の『かぐや姫の物語』について、書こうと思う。

内容について相当ネタバレしてるので、未見の人は避けることをお薦めする。


この作品を評して、とある人がこう言った。


「何でかぐや姫は事態を改善するために何の努力もしないの?翁の仕打ちが嫌だったのならちゃんと話し合えばよかったじゃん。それもせずに文句言って逃げてたのは自分の責任だろう」


この人は、随分幸せに育った人なんだな、と思った。


この物語は、いわゆる「毒親」の物語だと私は捉えている。

「毒親」とは、「毒になる親」の略で、文字通り、「成長の妨げになるような仕打ちを繰り返す、子供にとって毒になる親」という意味だ。

しかし、「毒親」の誰もが、「子供を虐げてやろう」などという悪意を以ってなるわけではない。むしろ「子供のためを思って」振る舞ったことが、結果的に子供にとって毒になってしまった、という事の方が多いのではなかろうか。


かぐや姫の物語』で描かれていた「毒親」は、まさにそのタイプの毒親である。

翁も嫗も、かぐや姫の幸せを第一に思って行動していた。

翁はかぐや姫のために山から都に引っ越し、立派な屋敷を建て、教養を身に付けさせ、しかるべき結婚相手を探すべく奮闘していた。

だが、かぐや姫が本当に望んでいたのは、野山で泥にまみれながら生きることだった。

親が思う幸せと、子が思う幸せが一致していなかった時に起こる、典型的な悲劇の形である。


さて、果たしてここでかぐや姫は「話し合い」などが出来ただろうか?


翁は100%かぐや姫への愛情を以って一連の行動をしている。かぐや姫は何度も拒否反応を示しているが、それにも取り合わない(むしろ気付かない)ほど、「これがかぐや姫の幸せだ」と、自分の価値観を正しく信じて疑っていない。こういう人間に何か言ったところで、「いずれお前にもわかる」などと説き伏せられて終わるだろう。

これは、別に翁が悪いわけではない。

「お金持ちになって高貴な人の妻になる」ことが、娘にとって最高の幸せだということは、当時の人間がありふれて持っていた価値観である。

月の天女であるかぐや姫にとっては、たかだか人間の帝の妻になること位、瑣末なことではあるが、元は竹取だった翁からとってみれば雲の上の話だ。人間は、自分が生きている世界の範囲でしか物事を見られない。翁は平凡な常識人なのである。

その平凡な常識人が、平凡な常識人なりの価値観で考え得る、最高の幸せを娘に与えようとした。ただそれだけのことである。

だが結果的に、かぐや姫は「もうここには居たくない」と世界に絶望し、月に帰ってしまう。


最後の最後に自分の過ちを悟った翁は、「許してくれ」と呟く。

でもこの翁は、「かぐや姫が二度と会えない所に行ってしまう」という取り返しのつかない事態になって初めて己の過ちに気付いたのであって、おそらくそれがなかったら永久に気付かなかっただろう。


ちなみに、この作品に毒親はもう一人いる。

翁を止めなかった嫗のことではない。

それは「月の世界」である。


元々のかぐや姫の故郷である「月の世界」にいる、かぐや姫の保護者(おそらく天帝)が、真の毒親である。

ここで劇中描かれていた月世界の行動を時系列に沿って列挙してみよう。


①地球に憧れたかぐや姫を罰するために地球にかぐや姫を追放する

②竹を光らせて、翁に姫を発見させる

③翁に黄金を与える

④翁に錦を与える

⑤姫が「ここに居たくない」と念じた瞬間、問答無用でお迎え宣言

⑥半ば強制的に衣を着せて姫を月まで連れ帰る


問題は③と④で、これが無かったら翁は都に出てくる資金が調達出来なかったし、出てこようとも思わなかっただろう。現に翁は「この衣にふさわしい暮らしをこの黄金で姫にさせよとのお告げに違いない」と語っている。

要するに、作為的に姫の憧れた自然豊かな野山を離れるように仕向けたのである。

劇中でも原作でも、月の都の人間はこの地球のことを「穢れた地」と蔑んでいる描写がある。そんなキタナイ所に憧れるかぐや姫の考えは、月の住人には到底理解出来ない。

だから「罰」としてかぐや姫を地球に追放するものの、なるべく早く戻って来られるように仕向けるのである。

翁に黄金を与えたのは、

「ホラ、地球はこんなにも穢れた地なのだから、早くこちらへ戻ってらっしゃい」

という、かぐや姫へのアピールのように私には思えた。

この「自分の価値観を疑いもせず、相手の意思を無視してでもそれを押し付けようとする」のはまさに翁と同じ毒親の行動パターンであり、しかもこちらは当然反省などしない上に、「記憶を消去する」というマインドコントロール能力まで持っているので何層倍もタチが悪い。

むろん、「話し合い」など不可能だ。月の世界に悪意は無いが、その意志を動かすことは神意を動かすに等しく困難である。


かぐや姫はまるで、毒親から逃れて別の人と幸せな家庭を築こうと思ったのに、結局その人もモラハラしてくるような人で、逃げ出したいとボヤいたら実家に強制的に連れ戻される、みたいな過程を辿って月に戻る。

しかも、人間の毒親ならいずれ死ぬが、月の人間は不老不死なので永久にこのままである。まさに地獄だ。


この物語は「毒親」の物語である。

だが、「毒親」とは明確に悪意を持った人間だけではなく、善良で、「子供に幸せになって欲しい」という親心を持っている人間もなり得るのだ、と、この救いようのない物語は教えてくれる。

では、親の意志を押し付けないために子供の好き勝手にさせればそれでいいかと言えばそうではない。

大事なのは、「これでいいのか」と常に悩み続けることなのだろうと思う。

翁も月世界も、「これが相手のためになるはず」と信じ切っていた。だからかぐや姫の苦悩にも気付かないし、己の過ちにも気付かない。

これは子育てに限った話ではないだろうが、「疑わない」ことは非常に危険なのである。

かぐや姫が世界に絶望して月へ帰ってしまう様は、「善意は人を殺すこともある」という示唆のように思えた。

私がもし人の親になる時があったら、この物語を心に刻んで戒めとしたい。