海風想

つれづれなるままの問わず語り

バカがバカで許される国~落語について

二日連続で落語を見て来た。

 
落語をほぼ初めて見た人の感想に「すごく癒された!」というのものがあり、私はとても新鮮な驚きを覚えた。
 
そうか、落語は癒されるのか。
 
それは、中学生で落語に出会って十数年、私がとうに意識するのを忘れていた感覚だった。
 
落語は確かに、「力を抜いて見ていられる」芸能だ。
何の予備知識もなく、ただぼーっと見ているだけで、向こうが気持ち良い心持ちにしてくれ、笑わせて楽しませてくれる。
それは確かにリラクゼーションの一種だろう。
 
実際は頭からっぽどころか、ものすごく想像力を働かせなければいけない(何しろ着物着たおじさんが右向いたり左向いたりして喋ってる独り言が、様々な人々の会話になるのだから)のではあるが、脳みそはフル回転しているはずでも、その意識は殆ど感じ無い。
達者な演者の落語などは、いつの間にかその「世界」へと引き込まれて遊ばされてるような、トリップみたいな感覚さえ得られる。
そして終わった後は、心地良い疲れだけが残る。
 
そしてもうひとつ、落語の癒されるポイントとして、落語が「否定しない芸能」であることも挙げられると思う。
 
かの立川談志は、「落語は業の肯定である」と提唱した。
私はもっとそれを平たく解釈してて、要するに落語は「人間がバカでいることを許された世界」だと思う。
 
確かに数多くの演目の中には、権力者への皮肉や、虐げられた民衆の悲哀、みたいなものを読み取れる噺もあるかもしれない。でも、基本的にそれは主題では無い。
 
落語の世界では、癇癪持ちもケチも粗忽者も強情者も、特に否定も非難もされておらず、ただあるがままに描写されて、物語を押し進める記号として使われている。
「こういう人間になってはいけない」という教訓などは微塵もなく、「こういうのもああいうのも全部人間だよね」というシンプルなメッセージだけが、根底に粛々と流れている。
 
落語の世界に出てくる人間は、だいたいの場合、昔の人間だ。
時代は江戸から明治ごろ。職人、商人、武士、時々無職。
だけど彼らの笑いや悲しみや驚きは、今の我々が持っている感覚と大差は無い。
だからそれを見た人間は、登場人物達の悲喜こもごもに勝手に自分や周りの人間を重ね、「こういう馬鹿な奴っているよなぁ」と笑ったり、「こんな馬鹿な自分でも、生きていて構わないのだ」と思ったりする。
 
人間はバカなものだと思う。
いや、もっと言うと、「人間はバカである場が必要な生き物だ」と思う。
 
それは、かつてコミュニティに存在した「ハレの場」―要するに祭りなんかの狂乱が、その役割を果たしていたのだろう。
今は、テレビ番組やSNSなどが、その役割にとって代わりつつある。
インターネットで誰かのことを大勢が執拗に叩くことを「祭り」と称するのも、通常なら理性や良心などによって抑えている感情を解放し、我を忘れて皆で踊り暴れる「狂乱」の場であるからだろう。
勿論、誰かを殺すような「祭り」は推奨されるべきではないが、人間は日常で少しずつ溜まっていったストレスその他を何かで爆発させることで、正気を保つ生き物であることは否めない。
 
そういう意味では、落語は最も平和な「祭り」である。
誰を傷つけることも、否定することもない。ただ「落語」という異世界が生み出す疑似体験の中で、日頃の負の感情を浄化して、笑いに昇華する。
 

落語はそうしたエンターテイメントだと思うのであるが、まあ、あまり詳しく分析するのも野暮な話なのでこの辺でやめておく。