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海風想

つれづれなるままの問わず語り

生きることはどうしてこんなに辛いのか〜『マーキュリー・ファー』考

世田谷シアタートラムで現在上演中の、『マーキュリー・ファー』を見て来た。


『マーキュリー・ファー Mercury Fur』 | 世田谷パブリックシアター/シアタートラム

 
脚本はフィリップ・リドリー、演出は白井晃
期待通り、素晴らしい作品だった。
 
フィリップ・リドリー&白井晃の組み合わせで上演された芝居を見たのはこれが初めてではない。
最初に見たのは2002年、『ピッチフォーク・ディズニー』だった。
忘れもしない、山本耕史さんの輝くばかりの演技を初めて見たのもこの芝居だった。
 
内容は、時代も国もどこかよくわからない家に、大人の見た目なのに子供のような言動をしている兄妹が住んでいて、二人は謎かけのような会話をしている。そこに謎の美青年コスモ・ディズニーと、異様な覆面を被ったピッチフォークという男が現れる。珍客二人によって兄妹の日常が徐々に狂っていくという筋立てになっているが、結局この兄妹が何者でこの家がどういう状況なのか、そして珍客二人の正体なんかも、最後まで明確にはされない。
リドリーはこういう、どこか抽象的で、でもその分深読みの余地がある本を書く人である。
 
『ピッチフォーク・ディズニー』は、まだ10代だった私の心に強烈な印象を焼き付けた。
性的な目で妹を見ようとするコスモや、それに対する兄の嫌悪と恐怖、覆面を取った時のピッチフォークを見た時の、主人公達の悲鳴、そういった、どこかざらっとした手触りの描写が、真に迫って胸を打ったのである。
 
そして今日、およそ十数年ぶりにリドリーの芝居を見た。
内容は、『ピッチフォーク・ディズニー』よりはかなりわかりやすくなっていた。
 
舞台は、爆撃が日常化し、略奪と暴力が横行するようになってしまった、荒廃したイギリスのどこか。若者達は「バタフライ」と呼ばれる麻薬のようなもので、束の間の夢を見て乱世の苦悩を誤魔化して生きている。
そこで主人公の兄弟が、「パーティ」の準備をしており、二人はその準備を巡ってあれこれ問答をしている。
だがその「パーティ」とは「パーティプレゼント」と呼ばれる子供を「パーティゲスト」である権力者が己れの欲望を満たすために殺す、という残虐極まりないものだったのである。
 
直接的な描写はないものの、そこに登場するのは目を覆いたくなるような暴力と悪意の応酬だ。
その情け容赦のない内容ゆえに、リドリーは「こんな残酷な話を書ける人とは付き合えない」と、友人から絶縁までされてしまったという。
 
しかし、一見センセーショナルな暴力描写の根底に流れているのは、リドリー自身がこの世界の理不尽さに覚えている深い憤りのように思えた。
 
主人公の兄弟達は、確かに残酷な宴に加担しているが、宴の生贄にされる子供はそれ以前に、両親を目の前で殺され、薬漬けでボロボロになっていたりする。
兄弟自身も、戦争により精神を病んだ父親に殺されかけ、母親がそれを庇って発狂しているという経歴を持つ。
結局、どう足掻いても地獄しか待っていない主人公達の状況は、いっそ死んだ方がマシかもしれないとすら思えてくる。
 
それでも、主人公は叫ぶ。
「せめて死ぬこと位は自分で選びたい」
と。
爆撃の火花が降る中、せめて火薬や兵士の手にかけるよりはと、この手で愛する弟を殺そうとする兄の姿に、私は涙を禁じ得なかった。
 
私が『ピッチフォーク・ディズニー』に感じ、更に『マーキュリー・ファー』に感じた共通のテーマ、それは「なんてこの世界は生きづらいんだろう」というシンプルな、だが生きている限り永遠に続く問いだった。
そしてこれは、私が好きな多くの物語に通奏低音として流れているテーマでもあった。
 
進撃の巨人』しかり。
ゲド戦記』しかり。
もののけ姫』しかり。
私的今季ベストドラマである『問題のあるレストラン』しかり。
 
「生きていることはこんなに辛いのに、それでもなぜ生きていかなければならないのか」
「それは死ぬこととどちらがマシなのか」
 
そうした問いは、常に私が自分に繰り返しては、それでもその苦しみすら、生きていなければ感じないのだから、と思い直して生きている。
そういう苦しみを感じたことがある人が多いからこそ、きっとこうした物語はいつまでも人類の間で生まれ続けていくのだろう。