海風想

つれづれなるままの問わず語り

愛だけが地球を救うのか?~『バケモノの子』考

細田守監督の最新作『バケモノの子』について書こうと思う。

www.bakemono-no-ko.jp

※文中では物語の核心部分に遠慮なく触れているので、未見の人は閲覧注意でお願いします。

 

この物語の主軸となるテーマは「親子」である。

 

物語は、少年・蓮(れん)が母を亡くし、父も行方不明のまま、「一族の唯一の男の子だから後継ぎとして育てたい」という「無償の親子の愛」からは対極に位置する損得勘定で彼を引き取ろうとしている親類から逃げ出し、渋谷の街を彷徨うところから始まる。

一方、バケモノの街・渋天(じゅうてん)では、トップである宗師が突然引退すると言い出し、猪王山と熊徹という二人の猛者の間で跡目争いが勃発する。

多くの人に慕われ、人品共に申し分ない猪王山とは対照的に、熊徹は実力はぴか一だが粗暴で弟子一人居ない孤高のワンマン。しかし、宗師になるためにはどうしても弟子をとらなければいけない。

そんな熊徹が面白半分に拾ったのが先述の蓮少年というわけである。

彼は蓮に「九太」という名を与え、以降師弟であり親子であり口さがない悪友でもあるような、「疑似家族」の形で寝食を共にするようになる。

最初は他に行くところがないからと渋々弟子になったような九太であったが、ライバル・猪王山に比べて人望がまるでなく、天涯孤独である熊徹の身の上に自身を重ね、自分も彼のように強くなりたいと志すようになる。

一方、熊徹は今まで独りで好き勝手やってきた分、人に何かを教えるということがまるで出来ない。すぐ癇癪を起こしては投げ出してしまう。ところが見よう見まねで自分に追いつこうとする九太の姿に、だんだん教え育てることの喜びを見出すようになる。

そうして二人は師弟として共に切磋琢磨し合うことで、周りの人間が驚くほどの成長を共に遂げるようになる。

 

ここまでは、「親子の成長物語」の王道を行っている。

子供は子供で、血の繋がりどころか種族の違いすら乗り越えて「親」なるものを見出すことで成長するし、親は親で、子を「育てながら、育てられる」という形で成長を遂げる。

 

途中、人間の世界の少女・楓と出会って人間界の智慧に触れ、また行方不明だった実父も見つかった九太(蓮)は熊徹のもとを去り、人間の世界に戻ろうともする。

だが、猪王山との宿命の対決の時に九太は熊徹を見守り、魂は共に戦うことで精神的に熊徹を支え、ついに熊徹は猪王山を打ち倒す。このシーンは実に感動的である。今まで「親も師もなく」「たった独りで強くなった」それゆえに「誰かを守る強さは持たなかった」(=人の上に立つ器ではない、まして宗師は務まらない)とされていた熊徹が、九太という無二の弟子でありパートナーを得ることで最強の剣士になるのである。

ところが熊徹は、猪王山の長男・一郎彦が、父を勝たせたいと思うあまり、背後から投げつけた剣によって倒れてしまう。実は一郎彦は猪王山の本当の息子ではなく、猪王山が人間界で拾って、密かに育てていた人間の子であった。父・猪王山を慕い、いつか父のように立派なバケモノになりたいと思っていながら、一向にバケモノとしての特徴が現れない自身に焦り、その結果心に闇をため、ついに一郎彦は闇に飲まれてしまう。(この世界では人間はその肉体の脆さを補うために心に「闇」を宿すとされており、それはバケモノの世界では危険物として扱われ、ゆえに人間をこの世界に住まわすのは禁忌とされている)

 

この闇堕ちした一郎彦と九太の対決が物語最大のクライマックスになる。そしてこの九太を助けるために熊徹は宗師としての地位を捨て、九十九神に転生して九太の「胸の中の剣」になる。

これによって熊徹は九太と二度と会えないことになるが、彼はいつも九太に寄り添い、見守ることが出来るようになる。そして人間が持つ「心の闇」を克服し、「全き剣士」として生きることが出来るようになったのである。

自分勝手で天涯孤独のバケモノであった熊徹が、血の繋がりもないたった一人の人間の少年のために、ここまでのことが出来るようになったのである。

なんという友愛。なんという献身。実に感動的な親子の物語であった。

 

……なんてことには、当然ならなかった私は、声を大にして言いたい。

「ちょっと待てよ」と。

 

これが「親子の物語」であるなら、描かなければいけないもう一組の親子を忘れてはいないだろうか。

猪王山・一郎彦親子である。

 

これまで、熊徹とライバルの猪王山はことごとく「対照的」に描かれてきた。

猪王山が礼儀正しく人格者なら、熊徹は粗暴で下品。猪王山が大勢の弟子を抱えているのなら、熊徹は一人の弟子も育てられないワンマン。猪王山に二人の息子が居れば、熊徹は天涯孤独。

ところが強くて人格者で完璧な猪王山だが、同じ「バケモノの親」としては熊徹とは対照的に「失敗」してしまう。

禁忌を冒して堂々と人間を弟子にしていた熊徹とは逆に、猪王山は息子が人間であることをひた隠しにし、何となれば当の息子にすらその事実を隠してバケモノとして育て続ける。

それは「息子のためにはそれが最良」と考えた猪王山の親心でもあっただろうし、品行方正・清廉潔白で通っている自分が、「人間を育てている」なんていう掟破りを行っていることを知られたくなかった、という、彼自身のエゴも含まれていただろう。

しかしその結果、息子はその「歪み」を独りで抱え込み、心の闇に飲まれてしまうことになる。これは不幸が重なったこととはいえ、親である猪王山に責任があることは間違いない。

 

ところが、である。

この猪王山、ただひたすら意気消沈しているだけで、息子の失態と何ら向き合っていないし、事態収拾に何の尽力もしていないのである。

 

本来、これは猪王山・一郎彦親子の感情の齟齬から生じた問題であるのだから、その「オトシマエ」をつけるのは父である猪王山の当然の役目であるし、もしこれが「親子の物語」であるのなら、このような「失敗」にどう対処していくのかも描く必要がある、というか、むしろそこが一番重要である。

しかしながら猪王山はその後、徹夜で付添でもしていたのか息子の枕辺で突っ伏している姿が描かれただけで、二人の間にどういう対話が為されたのか、人間であることを隠して育てられた(言うなれば騙されていた)一郎彦は父を許して受け入れられたのか、などは一切描かれていない。ただひたすら、「熊徹の献身」と「九太の成長」だけがウツクシク描かれてめでたしめでたしと強引に結ばれているのである。

これでは、「親子の物語」としては誠に中途半端であると言わざるを得ない。

 

世の中はままならぬことばかりである。

全ての親が子供を無条件で愛せるわけではないし、全ての子供が親を慕うわけでもない。

また、たとえ精一杯の愛情を降り注いだとしても、その愛情が全て子供にとってプラスに作用するわけではないし、むしろ弊害になってしまうことは沢山ある。

猪王山のような人格的に優れた人物が、子供にとっても理想的な親であるかといえば必ずしもそうではない。むしろ熊徹のような野放図な人間の方が、悩み苦しみながらも良き親として成長していくこともある。

「親子」の問題は誠に複雑で、理想や綺麗事だけでは語れないのである。

 

ところがこの『バケモノの子』で描かれた親子は終始一貫「綺麗事」である。

実母だけでなく実父も当然のように蓮少年を愛していたし、母実家の妨害もあったにせよ子供の時から実質ほぼ「ほったらかし」にされていた実父に対して、蓮自身は何ら悪い感情を抱いておらず、「父」として当然のように受け入れる。

一郎彦は闇堕ちしたにせよ根底にあったのは父への深い敬愛であるし、熊徹に至っては親子でもなかなかやってのけられないような献身を軽々とやってみせる。

絶対的な前提が「親子は慕い合うもの」「親は子に対して、あるいは子は親に対して、無条件で何でもしてあげようとするもの」などという、使い古された親子観を地で行っている。

そうして、それに伴う弊害は完全に「スルー」されている。猪王山・一郎彦親子の決着がまるで描かれなかったのは、「例外を認めない・認めたくない」意思表示にも見えて、見ていて窮屈な思いをした人も多いのではなかろうか。

 

「愛は地球を救う」という言葉がある。美しく耳障り良い理想の言葉だ。

しかし私は、「救わない愛だってある」ということを敢えて言いたい。毒親の愛情も、DV加害者の暴力も、全て「愛」という名目で行われることがある。「愛だから」拒絶できない、「愛だから」逃げられない、そういう風に愛に押しつぶされ、愛に殺された人達も大勢いる。

 

一郎彦の振る舞いだって、父・猪王山への愛ゆえだった。だからといって、渋谷を燃やし、大勢の人を吹っ飛ばした罪が消えるわけではない。(そのため、結局みんな軽傷で済んでいた、というご都合主義な展開は実に興ざめだった)

猪王山が一郎彦に事実を伝えなかったのも愛ゆえだ。だからといって、成長の過程で一郎彦を苦しめた事実が消えるわけではない。

熊徹・九太親子のように、うるわしく結実するだけが愛ではない。時に闇に変質し、それこそ怪物にすら姿を変えるのが、愛というものの厄介さだ。

その厄介さを避けて描いたところで、本当の愛を語ったとは言えない。

 

エンドロールが終わって周りの観客が感動の旨を口にして立ち去る中、私は大暴れの悪夢から目覚めた後の一郎彦の空虚な瞳を思い出し、独り暗澹としていたのである。