海風想

つれづれなるままの問わず語り

君の名はゴジラ〜シン・ゴジラと“名づけ”の話

庵野秀明監督『シン・ゴジラ』についてふと考えたことをまとめてみたが、ツイートでは長過ぎたのではてブに投稿してみる。

 
(※以下、『シン・ゴジラ』の核心部について思いっきり触れるので、ネタバレが嫌な人はブラウザを閉じることをお勧めします)
 
この映画の中では、ゴジラは最初から「ゴジラ」ではない。
 
もちろん、映画を見に来ている人達は始めから「ゴジラが出てくる」と知っていて見に来ている。
何しろタイトルが『シン・ゴジラ』だし、半世紀も前に作られた超有名特撮映画のリメイクだということも知ってるし、何なら「ゴジラ」がどういうビジュアルかも知っている。
だから始めに出てきた不気味な肺魚みたいなやつ(ゴジラ第二形態)については「ん?これとゴジラが戦うの? ああ、これがゴジラになるのか」などと逡巡することになる。
 
でもそれは、私たちが「ゴジラ」を知っているから。
考えてみれば当たり前である。
 
ところが、劇中(『シン・ゴジラ』の物語世界)においては、登場人物たちは「ゴジラ」を知らない。
この物語世界は、「円谷英二の生まれなかった日本」という裏設定がある。
当然、戦後にゴジラは作られていないし、何ならウルトラマンも怪獣も居ない。
だから劇中で「怪獣」という言葉は一度も使われない。
海中から巨大な尻尾が現れた瞬間も、その後尻尾の主が街に上陸して家屋を破壊していた時も、誰も「怪獣だ!」という台詞は吐かない。
物語前半部におけるゴジラの名称は、飽くまで「巨大不明生物」である。
 
この「巨大不明生物」に「ゴジラ」の名が付されるのは、パタースン大統領特使によって、牧博士の遺した資料が詳らかにされて後である。
この時、竹野内豊演じる赤坂補佐官は「こんな時に名前なんか……」と呟く。
確かに、蒲田に上陸した謎の生物に大田区辺りをボロボロに破壊され、その対応にてんてこ舞いになっている立場からすれば、破壊した当の生物がゴジラであろうと巨大不明生物であろうと大したことではない、そんなことよりあの生物を何とかしろ、そう思うのも無理はないし、実際あのシーンを最初に見た私もそう思ったものだ。
 
だが、ここで「巨大不明生物」が「ゴジラ」と呼ばれるようになったことは、実は大きな意味がある。
これまで漠然とした「巨大不明生物」という概念だったものが、「ゴジラ」と名を付されることによって、血の通った、れっきとした「リアル」の存在として、人々の前に浮かび上がってくるからである。
 
劇中で、議事堂を前に「ゴジラを倒せ」と「ゴジラを守れ」という対照的なプロパガンダを叫ぶ群衆が描かれているが、このように人々が「排除」派と「擁護」派に分かれたのも、ゴジラに名前がついてからではないだろうか。
名前をつけるということは、人々の感情を呼び起こすのに最も簡易で有効な手段である。
もっと平たく言えば、人は物に名前を付けると「愛着」がわくのだ。
 
例えば、家の庭に猫が迷い込んできたとする。迷い込んできた時点では猫は単なる「生活に入り込んできた異質な存在」であるが、名前をつけてしまったら、「うちの子になるか」となるのが人情だ。
「外の世界」の関わりのない存在だったものが、名づけによって「こちら側の世界の一員」となる瞬間である。
逆に言えば、「どうでもいい存在」には名前など付けないだろう。
普段使っているペンや定規などの道具に名前をつけている人が居れば、それはその人がその道具を「とても大切に思っている」証拠となる。
 
「愛着」と書いたが、名づけによって引き起こされる感情は、好意的なものだけではない。
嫌な上司や隣人などに「あだ名」をつけるのは、自分の悪意を名前によって固定化する行為だと私は思っている。
「好き」の反対は「無関心」という言葉があるが、実際関心のないものにはあだ名もつけない。
悪いあだ名をつけるのは、それだけその人に対して関心がある証である。
 
話が逸れてしまったのでゴジラに戻すと、「巨大不明生物」と呼ばれていた生物に「ゴジラ」の名前がついたことで、人々は特定の感情を抱くようになる。
牧博士は荒ぶる神の化身として、「呉爾羅(GODZILLA)」と名付けたことになっているが、この名前に引っ張られ、皆しばしばゴジラ人智を超えた能力に敬意を表するようなコメントを口にする。目の前で自分の生活圏が破壊されている様を目にしているにも関わらず、「くそ、ゴジラめ!」などと罵倒する人間は一人もいない。神に悪態をついても仕方がないとでも思っているかのように。
唯一、ゴジラの破壊活動に怒りを示しているように見えるのは矢口蘭堂だが、彼の怒りの矛先も、ゴジラそのものというよりは、無力な自分自身に対して向いているように見受けられる。
ゴジラが「シーラカンス」とかだったら、果たして同じように人々が反応したかどうか。
牧博士の名づけは、だから非常に巧みだったのである。
 
陰陽師』の中に、「名前」とは「呪(しゅ)」だ、と表現されているシーンがある。
その人の名前はその人をその人足らしめている一種の「縛り」であり、その名前がついているからこそ、その人はその人でいられる(だから悪い人間に名前を知られてしまうといいように支配されてしまう恐れがある)、という考えである。
この手の「名前」にまつわる呪術的な思想は東洋にはしごく一般的なもので、例えば前近代の日本において高貴な人物は本名を呼ばれない、いわゆる「諱(いみな)」の考え方や、中国の「字(あざな)」、子供にわざと酷い名前をつけて悪霊にさらわれないようにする風習など、数え上げたらきりがない。
 
庵野監督がそこまで意識したかは憶測でしかないが、私はゴジラの名づけに対しても、このような呪術的な意味を感じた。
劇中で「巨大不明生物」に「ゴジラ」と名付ける必要があったのは、ゴジラを支配してやろうとは思わないにしても、「駆除対象」として人々の感情をゴジラに向けさせるために不可欠なプロセスだったのである。
その一方で、「ゴジラ」と名前がついてしまったせいで、なんだか攻撃されているゴジラが可哀想になってしまうのも、これもまた人の感情の面白いところだと思う。
 
この「名前をつければ愛着が湧く」ということを利用すれば、日常生活はもう少し快適になるかもしれない。
試しに朝の満員電車で、ぐいぐい押してくるおばさんとか、意地でもスマホを見ているおじさんとか、そういう「名もなき人々」の行動にイラッとした時、脳内で彼らに名前をつけてみてはどうだろうか。
名前がついた途端に、少しだけ尖った感情が和らがないだろうか。それも、「オソノさん」とか「山田くん」とか、何かほのぼのさせる名前をつけてみるとなお効果的だと思う。(これは、嫌いな人間の名前などを付けてしまった場合、逆にイラッとさが増してしまう恐れがあるので注意が必要だ)
人は「名もなきもの」に対して殊更冷淡になる傾向がある。
匿名掲示板の恐ろしさはまさにそれで、実名公表しろとまではいわないが、名前がついている相手に対しては、自分と同じ血の通った人間であるということを、より意識しやすいのではないかと思う。
もっとも、名前がついていることによって、その名前を祭り上げて皆で叩く、「炎上」が起こるのも、またジレンマではあるのだが。
 
ゴジラの名前だけで話がとんでもない方向に行ってしまったが、こういう関係のないところにまで考察が果てしなく広がっていくのも、『シン・ゴジラ』が名作ゆえということで、今夏も良質な作品と出会えた幸福感を噛みしめながら一旦筆をおきたい。