海風想

つれづれなるままの問わず語り

おせちもいいけど、カレーもね。〜『タイガー&ドラゴン』考

『タイガー&ドラゴン』。

中学から大学に至るまでほぼずっと落研(※)所属という、青春のほとんどを落語に捧げたと言っても過言ではない私が、このドラマをちゃんと観ていなかったなんて、なんともお恥ずかしい限りだが、このほど一挙放送の恩恵に預かり、やっと通しで観ることが出来た。

 

※)落研【おちけん】 ①落語研究会の略称。②①に属する人間を指す。イマドキのものに興味を示さない、今の時代にそぐわない自分自身にどこか酔っている、拗らせた人間が集う傾向にある。「落語」の名を出して「笑点」を挙げる人間を蛇蝎のように嫌うが、現代落語を支えるのもまた「笑点」なので、大っぴらに否定出来ずに懊悩する。

 

 

いやあ、本当に素晴らしい。素晴らしいドラマだった。

素晴らし過ぎて、「感想をブログにする」なんていうmixiのパスワードと一緒に平成に置いてきたはずの技を、思わず再召喚したくらい感動した。

 

このドラマが本放送された2005年。

九代目林家正蔵襲名披露や大銀座落語祭のスタートといった、落語界にとってのイベント年間だったことも影響したのだろうか、いわゆる「落語ブーム」というものが起きた。

それまでは文化系サークルの中では圧倒的に日陰者で、なおかつそんな自分達がたまらなく好きという、捻くれた精神の持ち主だった落研部員たちにとって、それはまさしく青天の霹靂であり、腐海の底には清浄な世界が広がっていたレベルの衝撃だった。

この時を境に、一部の好事家が嗜むマニアックな趣味であった落語が、一躍演劇や音楽鑑賞に匹敵する、知的で文化的な娯楽の一つとして一般的になったのだと、私は認識している。

事実、「落語が趣味だ」と言った時の人々の反応が変わった。それまでは「へー……(知らねえ)」という微妙な空気になるか、せいぜい「座布団やり取りするやつですよね?」と言った返答がくるのが関の山だったものが、「へえ、実は落語って興味あったんです!今度連れて行ってください!」というようなポジティブなものに変わった。出演者の方が圧倒的に数が多いのがデフォルトだった平日昼間の寄席に、普通にお客が入るようになった。何なら人気の師匠が出る時は朝から並ぶというレベルになった。何より落研に入ってくる後輩たちが、ごく健全な、人の目を真っ直ぐ見て話せるような若者たちに変わった。

そして落語は「ブーム」が落ち着いても消え去ることなく、より知名度の上がった日常的な存在として定着し、今に至っている。

 

『タイガー&ドラゴン』は、そんな革命の引き金となった作品だった。今回改めて通しで見てみて、さもあらんなと納得した。

ドラマは、落語を知らない大多数の視聴者を充分に楽しませ、なおかつ「ニセモノ」には人一倍厳しい落研の連中にすらちゃんと「面白い」と言わしめる説得力もあるという、実に絶妙なバランスで作られている。

それはひとえに、脚本家である宮藤官九郎氏の、落語という芸能に対する理解と敬愛の深さを物語っている。

だがドラマは、単なる落語ファンが悦に入る内容だけに止まらない。「落語」というレンズを通して、「笑い」「言葉」「恋愛」「夫婦」「親子」「人間」といった、より普遍的なテーマを次々に切り取っていく。それが重くも退屈でもなく、極めて自然な流れでなされて行くので、観る方はゲラゲラと笑いながら、気が付けばあっという間に一話を見終わっている。しかし後には不思議な充足感が残るのだ。

 

そもそもタイトルの『タイガー&ドラゴン』というのはどういう意味か。

「龍虎」という慣用句を英語にしただけと言えばしまいだが、どうも事はそう単純ではない。

 

まず「虎」と「龍(竜)」は、主人公二人の名前の頭文字である。

壮絶な生い立ちゆえに笑うことを忘れ、笑いを取り戻すために落語家を志すヤクザ・虎児。そして人を笑わせる天賦の才を持ちながら、芸の世界から逃げ出した天才落語家・竜二。性格も立場も全く対極に位置したこの二人の男が、「落語」を通じて偶然出会うところから、物語は始まる。

 

二人に与えられた名前が「虎」と「竜」というのは実に象徴的だ。

まず「竜(龍)」は、西洋では悪魔の化身とか邪悪なるもののイメージがあるが、東洋においては天空を司る水の神であり、最高権力者たる皇帝の象徴である。要するに神聖なる存在ではあるが、世俗に交わらず、山や空の上といった超越した世界に棲まう孤高の生き物でもある。

一方「虎」から連想するイメージは。間違っても、木の周りをぐるぐる巡ってバターになる哀れな動物ではない。日本文学をかじった人間であれば、それは迷いなく「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」のオマージュであろう。高過ぎるプライドと出世できない現実との板挟みに懊悩し、妻子を捨て竹藪に逃亡してしまうアレだ。

 

さてここで、『タイガー&ドラゴン』の主人公達に立ち返ろう。

 

まず、竜二は落語の天才である。しかし天才ゆえに孤独でもあった。先輩や同輩たちからの嫉妬や誹りに苛まれ、周囲の期待という重荷を一身に背負い、父親でさえ師匠として一線を引かないといけない。その孤独と苦悶に耐え切れず、彼は浮世へと逃げ出した龍だった。しかし龍は龍。人にはなれない。なすべきことをなさず、果たすべきものを果たさずに過ごす彼の心には、知らず知らずに澱のようなものが重なっていく。その苦しみは、芸の世界で味わっていた苦悶とは似て非なるものだ。しかし彼は、その澱に目を背けて何となく生きていたところに、虎児と出会うのである。

一方、虎児。彼はもちろん天才ではない。しかし自我は人一倍強い男である。否、そうでなければ生きていけなかったのが彼の半生だった。幼い時に何もかも失った彼の世界には彼一人しかおらず、守る人も愛する人もいない彼はとても強かったが、彼が死んでも悲しむ人間もまたいなかった。劇中、虎児は恋もしないし、弱音を吐くこともない。ただ唯一、落語にだけは心を動かされ、噺家になってヤクザから足を洗いたいと切に望むのである。そうしていくうちに、次第に彼の世界は賑やかに、和やかなもので満ち溢れていく。その最も果てに、竜二が居るのである。

 

『タイガー&ドラゴン』はカテゴリーとしてはコメディなのだが、作品中に散りばめられたギャグやくすぐりの類を全て省いて大筋だけを書き起こすと、実は随分と重たいテーマを背負っているのである。

 

しかしこれは、落語も全く同じである。

一言に落語といっても、全てが面白おかしく和やかな笑いに満ちた話ではない。

「泣ける」人情噺や、怪談噺といったジャンルもそうだが、そうでなくても娘が身売りしたり、嫌われ者が死んだことをみんなして喜んだり、借金が返せないことを苦に心中しようとしたりと、人間の醜悪な部分を描いた、思わず目を背けたくなるようなものが多数存在する。

落語の世界は笑いに溢れた理想郷などではなく、ありとあらゆる種類の感情が渦巻く、私たちの生きる現実の世界そのものだ。そして「笑い」は言うなれば、そのまま口に放り込まれたら、生臭くてとても飲み込めない「現実」の口当たりを良くするための香料のようなものである。

 

『タイガー&ドラゴン』もまた、落語を小道具に物語を紡ぎながら、同時に舞台装置そのものに落語を組み込んでいるという、極めてメタ的な構造のドラマだ。

己の才能に目を背け、逃げ出した男が、自分自身に向き合って人生を取り戻していく。

感情を失い、他者を顧みなかった男が、周りの世界に向き合って人生を取り戻していく。

向き合う対象は違えど、これは結局、魂の救済を描いた物語だ。もっと陳腐な表現を使えば、「笑い」は世界を救う、というお話なのである。

おそらくクドカンは、落語によってどん底から救われた経験があるのではないか。などと勝手に邪推してしまった。落語を愛する多くの人間は、えてして落語に「救われた」経験を持っていると私は思っている。

しかしそれをそのまま「これは魂の救済を描いた物語ですよ!」などと喧伝した内容では、とても臭くて食えたものではない。「落語」というスパイスをふんだんに使うことで、初めて物語は深みとコクを増し、最後まで美味しく頂くことができる。食後には爽やかな満足感を得られ、「また食べたい」とすら思わせる。まるでカレーのようだと思い、そこで冒頭、虎児と竜二がカレー屋で出会ったのかと合点がいった。

正月早々、素晴らしいご馳走を頂いた気持ちだ。コロナ禍に倦み疲れた心に、なんと素晴らしい清風を与えてくれたことか。ありがとうクドカン、いえ、宮藤官九郎師匠。今度新しく始まるドラマ『俺の家の話』もぜひ見ます。