海風想

つれづれなるままの問わず語り

闘争の果てにあるもの〜問題のあるレストラン考

超今更ではあるが、前回のクールで木曜10時からやっていたフジテレビのドラマ『問題のあるレストラン』について書こうと思う。

『問題のあるレストラン』は『Mother』や『それでも、生きてゆく』など、社会派のドラマも手がけると同時に、『最高の離婚』などに代表される、軽妙な台詞回しと緻密な人物描写などでも定評のある坂元裕二氏の脚本になるものだ。
今回はシリアスな「社会派ドラマ」の側面と、コミカルな「人間ドラマ」の側面をバランス良く併せ持ち、重過ぎずかつ軽過ぎもしない絶妙なドラマに仕上がっていたと思う。

『問題のあるレストラン』はそのタイトルの通り、各々が内に「問題」を抱えた女性達がレストランを経営する物語であり、彼女達はなおかつ周りから「問題児」として社会から爪弾きにされた女性達でもある。
彼女らの問題は例えば、
職場でのパワハラ&セクハラであったり、
夫からのモラハラであったり、
毒親からの搾取であったり、
セクシャルマイノリティとしての苦悩であったり、
それぞれが、味わったことの無い人達にはおよそ「想像出来ない」あるいは「なかったことにされている」、だが確実に社会に存在している問題である。

このドラマは、予告編で「6人の怒れる女達が立ち上がる!」などと煽られていて、現にそれらの問題を抱えた女性達が、自分を虐げた男性達に対して宣戦布告をしてるストーリー、のように見える。
それゆえに、フェミニズム的なものを片っ端から叩かずにはおれない人達に叩かれたり、一部おじさま達の不興を買ったりもしていたようである。

しかし、それは大きな勘違いであると私は感じた。

テレビドラマとは、色んな人達から共感されてこそ成り立つメディアである。
だからこそ、そこに描かれるのは、男女の恋愛だったり友情だったり親子の愛情だったり、そうした至極ありふれた、だが人々が求めずにはいられない「多数派の幸福」を描く物語になりがちである。

勿論そうした物語は一定数必要だ。
だが、そこに共感出来ない人達を照らす眼差しが、この『問題のあるレストラン』には籠められていた。

結局このドラマの中では、「問題」は何一つ解決しない。
三千院さんは夫との離婚調停が終わらないし、千佳ちゃんは両親と何ら和解してないし、五月のセクハラ問題すら決着を見ないまま、たまこのレストランは閉店に追い込まれる。
そこに視聴者のカタルシスを得るような「大団円」などは一つも用意されていない。

でも、それはそれで「正しい結末」なのである。現実の問題はそんなに簡単に片付くものではないし、これはむしろ「こういう問題がある」と提示したことが重要で、ドラマ内での解決が意図ではないからだ。

このドラマは、「こういう問題がこの世にはある。だから目を背けないで」と問い掛けることこそが、大いなるテーマである。

第一話で、ヒロインのたまこは言い放つ。

「女が幸せになれば、男の人だって幸せになれるのに!」

それは彼女の最低限の願いであり、最大の望みでもあった。
「男死ね」でも「男滅びろ」でもない。
「男も女も、共に幸せになろう」こそが彼女の本懐であり、このドラマのメインテーマでもある。

最終話において、たまこは夢を見る。
そのレストランでは仲間の女性達も、今までの話の中では(形の上では)敵だった男性達も、一緒にチームとなって、理想のレストランを作っている。
「いい仕事がしたい」冒頭に出てきたこのセリフが、なんの含みも飾り気もない、彼女の真の願いであったことが明らかになるシーンである。

このシーンを見た時、私は涙があふれて止まらなかった。
とかく人々はこのテの話題に対して「男vs女」みたいな構造を思い描きがちであるけれど、彼女らが本当に望んでいることは、「男に取って代わり女が支配する世界」なんかでは勿論無く、ただ皆が仲良く手を取り合う世界であると。それを実現したいがために、結果的に戦うための武器を手にしなければいけない人達が、少なからず居るということ。そしてそのような物語を、仮にも民放キー局で、男性の脚本家が描いてくれたということ。
そうしたことに対する悲喜交々の感情が胸に迫ってきて、私は何とも言えない深い感動に打ちひしがれたのだった。

このドラマを単に、「女に媚びへつらうだけのドラマ」とだけ見る人もいたかもしれない。
でも、このドラマの中で最も力を入れて描写されていたのは、虐げられる女達でも虐げてる男達でも無く、「厚切りベーコンのポトフ」である。
あのあまりにも美味そうな「厚切りベーコンのポトフ」によって、幸せにしたい人達は誰か。それは男でも女でもない、美味しいものを食べたいと願う全ての人達である。
かつてとある牧師が切々と語ったように、「虐げた者も虐げられていた者も、分け隔てなく食卓につく」世界を望む心が、そのポトフには宿っているような気がしてならないのである。