海風想

つれづれなるままの問わず語り

Twitterの”加害性”について

『誰も守ってくれない』という映画があった。

 

志田未来演ずる少女の日常が、兄が凶悪犯罪を犯したことをきっかけに崩壊していく様を通じて、「加害者家族」となった人々の受難を描いた物語だ。

その中で、長男が逮捕された直後に家族が警察に保護され、ホテルの一室で離婚届と婚姻届を書き、速やかに一家の氏姓を変える場面がある。彼らが今後浴びるであろうバッシングの過酷さを、淡々と物語るシーンだ。

数日前、Twitterで起きた事案を目にした私の脳裏には、このシーンが真っ先に浮かんだ。

 

それは、とあるツイートをきっかけに、一個人に過ぎないアカウントが炎上し、過去のツイートを掘り返され晒され、関係ない他のツイートにまで、それこそ不特定多数の人々から散々罵詈雑言を浴びせられた上に、最終的にアカウント削除にまで追い込まれたという、Twitter上では残念ながら日常茶飯事な事案であった。

 

具体的にどの事件がきっかけであるかは、この"炎上"に加担することにもなるし、改めては書かない。

それにこういうことは本当によく起こっているので、今更元になった事件を名指しせずとも、いくらでも過去の事例を挙げられるだろう。

 

とにかく私は、こうしたことが「日常茶飯事」であるTwitterの異常性というものを、この事案を通して今更ながら痛感したのだった。

 

Twitterはおよそ、「罪人(と認定されたアカウント)にはいくらでも石を投げつけても赦される世界」だ。

その「罪人」というのは、あからさまな犯罪行為を行っている者だけでは勿論なく(むしろそれは少数派だ)、例えば「不適切な発言をした」「迷惑な行為をした」という、どちらかというと「倫理に悖る」もの、犯罪行為として法的には裁けない者達にそのレッテルが貼られる傾向にある。

そしてそのレッテルを貼られたら最後、彼らがどういう属性で、過去にどんな呟きをし、どういう日常を過ごしていたのかを全て掘り返され、批判され、人格否定や単なる罵倒の類も織り交ぜたリプライの数々が浴びせられる。その経緯はどこかの掲示板やブログ、果てはYouTubeにまでまとめられ、そのアカウントにとってはデジタルタトゥーとして永遠に残されることになる。例えアカウントを削除しても、発言そのものはアーカイブして保存されるのだ。

 

私は問いたい。

これらの行為のどこに、「正義」があるのかと。

しかし炎上に加担して、「罪人」に石を投げている彼らには加害している意識など無い。

なぜなら石を投げられたのは「罪人」が悪いからであって、むしろ悪いのは自分達を不快にさせた彼らなのだと、おそらくそのように考えているのではないか。

 

確かに何か言葉を呟けば、それに対する批判が来るのは必然ではある。

ましてやSNSという場の、非公開ではない、全世界公開のアカウントで何かを呟けば、それが不特定多数の目に触れるのは想定の範囲内ではある。

しかしでは、その「批判」というのはどこまで許されるのだろうか?

私は正直わからなくなってしまった。

 

────そしてここまで書いて筆を止めていた時に、安倍元首相が銃撃されて殺される、という衝撃的な事件が起きた。

それはおよそ私達が過ごしていた平穏な日常というものが、実はあまりにも脆い薄氷の上に立っているものだったと思い知らされる出来事だった。

私たちは、少なくとも法律と理性が機能する世界に住んでいるのだと思っていた。しかし現実には、それらを易々と乗り越えて暴力は私たちに牙を剥き、私たちが拠り所として、守り、大事にしているもの達をいとも簡単に踏み壊していく。

 

改めて私は言いたい。

何かを批判することと、暴力を振るうこと(これは身体的な加害だけでなく、精神的なものも含まれる)は絶対に分けておかなければいけない。

誰かを、例えばそれが政治家であれ、単なる一私人であれ、その人の言動に批判を加えることは勿論自由だ。しかしそれは、その人の言論を封殺したり、心身を害していいということにはならない。たとえそれが倫理に悖る(と判断される)行為であっても、それを裁くのは一個人であってはならない。私刑が罷り通る中世ならまだしも、いやしくも現代の法治国家である以上、誰かを批判する時、何かに意見をする時に、それはまず念頭におかなければならないことだと思う。

しかし現状のTwitterでは、それがあまりにも無視されている。自分が悪と認めたものに対しては、それが同じ人間であるということを忘れて構わないという振る舞いをするのが、もはや「Twitterしぐさ」として成り立ってしまっている。

 

私が愛し、10年以上に渡って入り浸っていたSNSTwitterは、今やこんなにも加害性を孕むツールになってしまったのだろうか。

 

そう「加害性」である。これもつい最近トレンドワードになったものだった。Twitterこそが大いに加害性を孕んでいる。そしてこれを指摘すると、「Twitterなんて元々そんなものだろう」とすら言われてしまう。そんなんでいいのか?と私は、敢えて、改めて問いたい。

罪なき人のみが石を投げよ、と諭す人は、誰も居ない。いてもかえってその人が石を投げられてしまう。

こんな世界に、誰がした。