海風想

つれづれなるままの問わず語り

誤解を受けやすい言動はその人の罪なのか?

世の中には「誤解を受けやすい人」というのがいる。

かくいう私も、その一人だ。

先輩や上司などにある日突然、特に何をしたというわけでもなく、ものすごく嫌われて、冷淡な態度を取られたことが過去何度かあった。

ここでは「ある日突然」という言葉を敢えて使う。

相手は何度か「これは私に良くない印象を与えるよ(与えているよ)」というサインを出していたのかもしれないし、周りの人間には、「あんなことしたら嫌われるだろうな」という前兆が見えていたのかもしれない。

しかし、私自身はそれらに全く気付いていなかった。
その結果「ある日突然」「何もしてないのに」嫌われた、という認識となったのである。
当然、何で嫌われているのかわからないから、対応策もわからない。そもそも相手には嫌われているので、何かしら手を打ちたくても取りつく島もない。
人間関係としては完全に「詰み」である。

 

また、こんなこともあった。
小学5年生の時、教室でふと顔を上げたら、向こうを歩くクラスメイトのYちゃんと目が合った。彼女とは普段から非常に仲が悪く、その時も目が合った瞬間に彼女は「あっかんべー」をしてきた。頭に来た私はそれに対し小声で罵倒していたら、その様子を担任の教師に見咎められて、結果的にYちゃんと二人で呼び出された。
教師はまず、私が罵倒していた理由を問うたので、「Yちゃんに『あっかんべー』をされたからです」と答えた。するとなぜそんなことをしたのか問われたYちゃんは、「(私に)睨まれたから」と答えたのである。
当然、私は睨んでなどいない。ただ偶然目が合っただけである。しかし正直にそれを伝えると、教師はこう私に言ったのである。

「睨まれたと誤解されるようなあなたも悪い。」

 


自分の例ばかり列挙しても単なる恨み節になってしまうので、もう少し客観的な例を出そう。


野原広子さんの『ママ友がこわい』という漫画をご存知だろうか。
https://ddnavi.com/serial/257950/a/


主人公は幼稚園に娘を通わせる主婦で、彼女は「とある誤解」が原因で、仲の良かったママ友と仲違いしてしまい、現在は挨拶しても無視され、イベントなどで度々嫌がらせを受けている。


詳しくはぜひ本編を読んで頂きたいが、その「誤解」の内容は「自分が言った何気ない一言が子供達の口を通じる内に曲解され、相手の子供の悪口を言っているというように誤解されたから」という、主人公側から見れば非常に理不尽なものだ。主人公はその事実を知り、「そんなつもりはなかったのに」「それで挨拶まで無視するようになるなんてあんまりだ」と嘆く。読者側も当然、それに共感するだろう。


しかし一方で、例えばこの漫画に対してこのようなコメントが付いていた。


「誤解されたのは気の毒だけど、ふつうに子供の悪口言われたら私ならキレると思う」


それも至極ごもっともな意見だ。
「誤解」である、という事実を知らなければ、自分の子供の悪口を、ましてや親しいと思っていた人が陰で言っていると知ったら立腹するし、今後その人との付き合いを考えるようになるというのも、当然の感情である。
(いきなり無視したり、意地悪したりといった、態度の表し方には問題があるだろうが、これについては後述する)


この作品に出てくるような「誤解」が原因で人間関係が拗れてしまうようなことは、残念ながら日常的にどうしても起こってしまうことだし、これは一概にどちらが悪いとも断じられない。


そこで冒頭の「誤解を受けやすい人」の話に立ち返る。


「誤解を受けやすい人」というのは、この漫画に出て来たようなことを人生で何回か繰り返している。
それももっと厄介なことに、この漫画の例のように明確に「悪口を言っていたから」と原因が特定できることは実は稀で、多くは日常の(当人は全く意識していない)言動の積み重ねの末に起こることだったりする。そうなると、自覚のない本人には全く手の施しようがない。
結果、当人には全くそのつもりがないのに、相手を舐めている、軽んじていると思われてしまう→疎まれる・嫌われる なんていう事態があるのである。


私がここで疑問に思っているのは、こうなった場合、多くは「誤解を受けるような言動を行った側」のみが責められがちということだ。
かつて睨まれたと誤解された私に教師が言い放ったように、

「誤解されるあなたが悪い」

という言葉が、こうした人達にはよく浴びせられる。
「自業自得」という言葉もある。
今ある人間関係の有様は自分の言動に由来するのだから、この結果が悪かったとしてもお前の責任だ、ということである。

自業自得。確かにそうかもしれない。

「誤解を招きやすい言動」というのは多くの場合、相手や周りがこれをどう受け取るか、それに配慮していなかった結果であることが多い。だからそれを改めて、もっと気を遣って生きるようにしろ、というのはその通りだ。
人間関係を円滑にするためには、まず周りを見ることが肝要ということも勿論わかる。
それらを怠ったのだから、結果として周りの態度が悪くなるのは確かに「自業自得」かもしれない。

 

しかし一方で、「誤解を招きやすい言動」をしている人というのは、自分のどの言動が「誤解」を招いているのか、そもそも自分の意図していない形で受け取られる可能性があるということにすら、気付いていないことが大半である。(で、あるがゆえにそういう言動をとるのではあるが)


つまり「この言動はこのように受け取られるよ」ということを誰も指摘してくれなければ、何を改めればいいのかすらわからない。
結果的に何も改善されず、「何で私はいつのまにか皆に嫌われているんだろう」と一人落ち込み、自然と人間関係から遠ざかるようになって、益々「誤解を招きやすい言動」は悪化するのである。

 

私は幸いにして「あなたのこういう言動はこういう風に受け取られるよ」と指摘してくれる、良い上司に恵まれた。
私としては全くそのつもりがなかっただけにそれは大変衝撃だったのだが、と同時に、今まであったような「ある日突然いきなり嫌われていた」というのも、ああこういうことが原因だったのかもしれないなぁと省みて、非常に恐ろしくなったのである。
何が一番恐ろしいかといえば、省みて当時のことを記憶の限り思い出してみようとしても、やっぱり何で嫌われたのかがわからなかったからだ。(ぼんやりこういうことだったのかな?とは思っても、飽くまでそれは憶測でしかない)

自覚していないのだから、勿論記憶になど留まっているはずがない。私にとってそれは永遠のブラックボックスなのである。

 

そしてもう一つ、
誤解を招きやすい言動を改めもしない人間が、怠ける言い訳をしているようにも受け取られるかもしれないが、それでも敢えて言いたいのは、

「誤解する側にも責任はないの?」

ということだ。

 

もっと言うならば、誤解をする、そのこと自体は人間だから絶対にある。それは避けられない。しかし誤解をしてしまった結果、相手を害するような言動をする(例えば無視する、冷淡な態度で接する、意地悪をする、など)のは正しいことなの? ということを問いたい。

先に挙げた例を取るならば、

 

・相手から睨まれたら、「あっかんべー」を返していいのか?

 

・子供の悪口を言った相手を、いきなり無視して意地悪していいのか?

 

・態度が悪い後輩を、指導もせずに突き放していいのか?

 

「あっかんべー」の例は子供同士の喧嘩であるかもしれないが、では「相手の態度が気に入らなかった」「こういう言動が不快だった」ということを一切伝えることなく、いきなり嫌悪という感情を露わにするのは、果たして真っ当な大人の態度と言えるだろうか?

それは「睨まれた」と視認した相手に「あっかんべー」と返す子供と同じレベルの行為ではないだろうか?

またこの相手が、例えば自分の子供同士が親しい間柄であるとか、職場の後輩であるとか、要するに「これからも関係が継続していく」相手であった場合、そのような言動で応えることは自分たちのみならず、両者の所属する集団にも悪影響を及ぼすのではないだろうか?

ましてやそれが、自分の誤解であったとしたら? そういう言動をとってしまったことは、ただ人間関係を一つ壊しただけの「嫌な行い」として人生に刻まれるのである。

 

誤解を招かせてしまう側で何を偉そうなと思われるかもしれないが、それでも私はお願いしたい。


相手を不快に思う事態が生じた時、相手を拒絶する前にもう一度だけ立ち止まってほしい。
相手がきちんと話ができるのであれば、「あなたのこういうところが不快だった」ということを、言葉でもって相手に伝えてほしい。
そうしてみて、それでも態度が改まらない、もしくは全く聞く耳を持たないということであれば、そこで初めて相手との関係を終わらせる、という選択をとっても遅くはないのではないか。
(相手が部下や親族であった場合、そう簡単に切ることもできないとは思うが)

 

確かに自分の不快感を言葉に出して説明するというのはとてもエネルギーがいる。
そんなリソースを割くほど、相手に対して思い入れはない、ということもあるかもしれない。むしろそんなことは言われる前に気付けよ、という苛立ちを抱くかもしれない。
しかし、だとしたら負の言動をもって相手に接するのだけはやめてほしい。静かに遠ざかって、最低限の会話はしても心を開かないという接し方に留めてほしい。

それだけでも相手は、「自分は何かしてしまったかもしれない」と気付く可能性はあるし、何も相手を傷付けるような言動をして自らを貶めることもない。

何より自分が相手に感情リソースを割く気がないのであれば、相手に割かせるのも筋が違うというものだろう。挨拶すら無視したり、冷淡に接したりすることは、相手の感情を削り、魂を消耗させるものだということを忘れないでほしい。
自分が傷ついた時に人はしばしば忘れがちであるが、自分を傷つけた相手も自分と同じ人間で、傷つく心を持っているのだ。

 

そしてもし、相手の態度が改まるならまだこの関係を継続したい、あるいは、相手との関係性が悪化すると組織の不利益に繋がるから、何とか改善を試みたい、そう思えるのなら、ぜひ上記のような「話し合い」を続けてほしい。
それに対する相手の反応こそが、その後相手との関係を継続する価値があるのかどうか推し量る、まさに指標になるだろう。
逆上したり全否定したりするようであれば、その人は「それまでの人」であるし、誤解されていることに「気付いてすらいなかった」のであれば、まだ改善の余地があるのだ。
そして気付いていなかったのであれば、それを教えてあげることは、その人にとってどれほど助けになるかわからない。何となればそれは、自分の人生のあり方すら見直す機会になるのだ。

 


誤解を受けやすい言動は全て、その人の罪、自業自得なのか?


私の答えは「否」である。

そもそもこれは、誰が悪い、悪くない、という話ではない。
敢えてそういう言い方をするなら、「誤解を受ける方も悪いけど、誤解する方も悪いし、今までそれらを指摘してくれなかった周りもみんな悪い」ということになる。

なぜなら「誤解を受ける言動」というのは、「誤解をする人間」が居て初めて成立するからだ。両者の間に何かしらの情動が生まれたとして、その責任が片方にしかないという事態はあり得ないのである。
また生じた「誤解」が継続し、その後両者の関係悪化が進行することにおいては、お互いが全く秘密裡に行っている場合を除いて(通常そんなことはあり得ない)、放置している周りにも責任が及ぶ。
実はこういうことは、客観的な視点を持つ第三者が仲介に入った方が、解決の糸口が見つかることが多い。それをせずどちらか一方の肩を持ったり、ただ傍観していたりするだけでは、その集団の空気は悪化していく一方なのである。

 

しかしこれはそもそも、「言動が、当人の意図とは違う形で相手に伝わった」ことに端を発する、言うなれば認知の齟齬によって生じる問題である。

これに対する解決策は、「どっちが悪いか」を論じることではなく、「その齟齬を解消する」ことである。そのために「話し合い」は有効なのだ。

誤解を与えた方は、確かにその無配慮さなどを改める必要があるだろう。しかし、それについて何の弁明もできず、誤解を解消する機会さえ与えられずに、その人格を否定されていいわけではない。

また誤解した方も、「誤解」であることが判明すれば不快感も和らいで、結果的にプラスの方向に進むことになる。

 

「(自分も含めて)誰かが悪い」と決めつけることは、とても楽で安直だ。
だからこそ人間関係で何か問題が生じた時、人は「誰が悪いのか」をまず探したがる。
しかしあるゆる事象は大概、様々な要因が絡み合って結果につながっているので、何か一つ「これが原因」と断じることはできない。またそれが「原因」だったとしても、即ち「悪」というわけでもない。
「原因」となる人を特定したとしても、「その人が悪かった」で終了していいものではない。「その人はなぜそのような言動に至ったのか」「再発を防止するのはどうすればいいか」などをきちんと分析し、解決策を見出さなければ、同じようなことはこの先も繰り返されるだろう。何より「その人」は永遠に「そういう原因を生み出す人」のまま放置されることになる。それでは誰かの溜飲を下げることはできたとしても、根本的に問題は解決されないだろう。

 

「誤解を受けやすい言動が悪い」という言葉の裏には、「だから自分は悪くない」という「逃げ」が見え隠れする。
私は「誤解を受けやすい」族の一人であるからこそ、安直にこの結論に逃げることはなく、真摯に事態と向き合っていきたい。
それが小五の時、「睨まれると誤解されるようなあなたも悪い」と言った教師に対して、理不尽に思いながらも何も反論が浮かばなかった自分が、今出来る精一杯の回答であるように思う。