それは「美術」ではなく「図工」の時間だった。
そう、「図工」。
小学校の時は、美術の時間を図工と呼んでいた。図画工作、の略だろう。
工作はともかく絵画は得意だった私は、4年生くらいまでは図工の時間が大好きだった。
アイディアは無限に生まれ、描けば教師生徒問わず皆に褒められ、それが楽しくてまた夢中になる。
そういう幸福なループの生まれる時間だった。
そんな私と図工との蜜月は、ある日突然終止符を打たれる。5年生の時から図工の時間を受け持つことになった、1人の教師によって。
私の小学校では図工の時間は、4年生までは他の授業同様に教室で行うが、5年生からは専用の教室で専任の教師が行う事になっていた。
足を踏み入れると、油絵具や粘土やそれら諸々の混ざった独特の匂いが鼻をつき、机は信じられないほど削れて凹んで絵具にまみれていて、石膏像や名画の模造品が壁や棚に所狭しと並べられた異様な空間。
初めて美術室に足を踏み入れた時は、緊張と興奮で胸が躍っていたのを覚えている。
その図工の先生は、校内ではカリスマ的な人気がある有名人だった。
美術室での図工の授業が始まる以前から、私もその存在や「すごい先生」であることは知っていた。
秋のイベントである展覧会のワークショップで少しだけ話したことがあったが、「何やら面白い先生がいる」という感想を抱いたのを覚えている。
実際、彼の「すごさ」は最初の授業から如実に発揮された。
彼は教科書や黒板を一切使わず、基本的に全て自分の言葉だけで話をした。
最初に教えられたのは「サウンドスケープ」というものだった。周りの風景や音をよく観察し、それを書き留める。芸術の基本だということだろう。
彼は事あるごとにこの単語を出して、それをするように生徒たちに促した。
こんな調子で彼の授業は全て、どこか「一風変わって」いた。不思議で、とらえどころがなく、独特の世界観があった。
教科書とノートを広げて板書をとるようなものとは一線を画したその授業は、自我と共に大人達への反抗心が芽生え、画一的な学校教育に反発を抱き始める、しかし心身ともまだ子供である10歳ごろの児童の心を瞬く間に鷲掴みにした。
この位の年齢の子供たちは子ども扱いされることに倦み、「大人」を振りかざす大人を嫌う一方で、「大人」の型枠にはまっていない大人に惹かれ、憧れるものだ。大人を嫌いと言いながら、一部の大人には心酔する。それこそがまだまだ大人になり切れていない証なのだが、そんな自覚は当然ない。
この図工の教師は、そんな児童達を魅了するという点では天才的な素質を持っていた。
彼は「サウンドスケープ」以外にも、あらゆる自分が「良い」と思うものを生徒達に紹介した。
例えば、『星の王子様』。宮沢賢治と『銀河鉄道の夜』。ピカソの絵画や、パブロ=カザルスの『鳥の歌』、等々。
事実、それらは「良い」ものに違いない。価値の高い芸術の一つとして、多くの人々に愛されてきたものだ。
そういう良いものを生徒達に教えたい、触れさせたいと思い、それを行うこと自体は何ら悪い事ではない。
しかし問題は、その薦め方だった。
彼はそれらがいかに素晴らしいか語る一方で、それらを理解しない、受け入れようとしない人達をことごとく否定した。
電車で漫画を読んでいるサラリーマンたちを貶し、漫画ならば手塚治虫のような高尚なものを読むべきだと説いた。
彼の認める芸術作品は格調高い至上のもので、それ以外は塵芥であるというような口ぶりだった。
大人になった今になって振り返れば、彼のその教えには明らかに問題があるし、偏見を子供たちに植え付ける悪質なものですらあったと判る。
しかし10歳そこそこの私は当然その異常さに気付くはずもなく、「すごい先生」である彼が言っていることは全て正しく、そこから逸脱することは悪い事なのだと、そう単純に思い込むようになった。
そしてそういう生徒は、何も私一人ではなかった。皆それほど彼に心酔し、彼の教えは正しいと信じていた。
教室全体が、彼という神にひれ伏す一つの宗教のようだった、あれは一種の「洗脳」であったのだろうと思う。
一つ、強烈に覚えていることがある。
授業でパブロ=カザルスのドキュメンタリー作品のビデオを見た時のことだ。
高齢のカザルスがそれでも必死でチェロを弾き、若い妻がそれを介助する、という内容だったと思う。
正直なところ、10歳そこそこの子供が見て楽しいものでは全くなかった。
しかし私は終始、「これを見て感動しなければならない」という圧を感じて焦っていた。
事前にその教師が、ビデオを見て感動し涙を流したという生徒がいかに素晴らしかったかをとうとうと語っていたからだ。
「これに感動しないと先生に認めてもらえない」単純な子供であった私はそう思って、必死に涙を流そうと努力した。
しかし、そんな気持ちで見ているビデオに感動などできるはずもなく、私はただ徒に画面を見てそわそわしているだけの生徒になっていた。涙など一滴も出ないどころか、内容すらほとんど頭に入らなかった。
そしてビデオ鑑賞が終わって、教師が私に向かって言った。
「君は悲しい子だね」
おそらく上記の涙を流そうと挙動不審になる様を見て、ビデオに飽きて集中していないように見えたのだろう。カザルスの美を理解できないなんて、君はなんて感性の貧しい人間なのだ。彼の「悲しい子」という言葉は、そんな哀れみと侮蔑の響きを含んでいた。
そしてその言葉の後、彼は食い入るようにビデオを見ていたという、別のクラスメイトを賛美し始めたのである。
「悲しい子」という言葉を目の前にべたりと貼り付けられ、私は目の前が真っ暗になった。
今、タイムスリップしてあの時の教室に行けるなら、私はあの教師に張り手一つもかましてこう言ってやりたい。
「あんたのような人間に教えられたら、子供は皆芸術を嫌いになる。あんたこそ芸術の敵だ」と。
何かを鑑賞する時に、それを好ましく思うか気に入らないと思うかは、まったくもって個人の自由だ。そしてその自由こそ、芸術を鑑賞する全ての人が持つ、最も気高く重要なものではないのだろうか。
しかし彼のやっていることは、その自由を奪った上で自分の価値観を押し付けているに過ぎない。そのものに触れた素直な感情に過ぎないものを、片方は賛美し片方は全否定することの、一体どこに教育があるというのだろう。
かつて人類史上では様々な芸術が、「公序良俗に反する」であるとか「反体制である」であるなど、あらゆる理由で迫害され、排除されてきた。そして同時に、それに抗っても作品を残し続けた人々から、今日も残るあらゆる傑作が生まれたのではなかったか。
芸術を教えるという立場の人間が、芸術を排斥してきた側のムーブをやるという、この恐ろしい矛盾に、しかし小学生達が気付くはずもなかった。
彼がこのような偏った言動をするのは、もちろんこれだけではなかった。
彼は特定の生徒を明らかに贔屓し、彼らの作品は下にも置かず褒め称える一方、気に入らない生徒のことは悉く否定し、皆の前で貶した。(この「贔屓」については、薄々他の生徒達も気が付いていた。しかし表立って抗議する者はいなかった)
私は途中から「気に食わない生徒」のカテゴリーに入れられてしまったようで、先ほどのビデオ鑑賞の時のような言葉を吐かれたり、作っている作品を取り上げて「何が作りたいかわからないまま作っているから、ほらめちゃくちゃになっちゃってる」と言われ、「悪いお手本」としてクラス全員の目の前に晒されたこともある。
それまで最高評定しかもらったことのなかった通信簿の図工の成績は、あからさまに下げられた。
気が付けば、私の図工を愛する心は完全に委縮し、創造力の翼はベキベキにへし折られていた。
それと引き換えに、どうすればこの先生に気に入ってもらえるだろうか、優しい言葉をかけてもらえるだろうか、そんなことばかりを気にして作品を作るようになってしまった。
虐待された子供がそれでも何とかして親に気に入られようと必死に模索するように、私はこの教師が好みそうな形に作風を変え、彼の好みそうな言動をとった。彼が顧問を務める美術クラブにも入ったくらいだった。
一体何をそんなに必死だったのだろうかと、今考えれば滑稽ですらあるのだが、そうまでして私は、彼に気に入られたかったのだ。学校で人気の、カリスマ的な図工の先生のお気に入りになれば、自分も素晴らしい人間になれるかのような、そんな錯覚をしていたのかもしれない。
もはや私にとって、図工は得意教科でもなければ、楽しく幸福な時間では永遠になくなった。
そんな愚かな洗脳は、小学校卒業と同時にあっさりと解けた。
そして私は、あの先生は本当に最悪だったと親にも話せるようになった。
親もその先生のことは知っていたし、人気の先生で皆に慕われていたと思っていたので、随分驚いていた。外から見れば、彼はちょっと不思議な雰囲気の、しかし生徒には人気の芸術家肌の先生に過ぎない。しかも親のところにまで届いてくるようなのは、あの先生の授業は楽しい、面白いなどのポジティブな意見だけだった。そしてそういうのを喧伝するのは、彼の教育に「適応」できた、「贔屓」の恩恵を受けた一部の生徒だけである。彼と合わなかったがために地獄を見た私のような生徒達は、ただただ口をつぐむのみであった。そういう意味でも、彼のカムフラージュは完璧だったのだ。
彼はよく、過去に受け持ってきた生徒たちの思い出話もした。
中にはプライバシーの暴露でしかないような内容のものもあり、そんなことを平気で他の生徒にべらべら喋る教師の行動は今でこそ問題になりそうだが、何しろそれを聴く生徒達は「洗脳」されている。ましてや、モンペなどという言葉も存在していなかった時代である。先生の権威は高く、その教育方針について父兄が口出す事は「越権行為であり、おこがましい」という気風がまだまだあった。彼のその言動が問題になる事はついぞなかった。
その思い出話という名の暴露話の中に、彼のことを疎んだ生徒達、というのもいた。そういう子達は、卒業後に道で彼に会っても知らん顔して素通りするという。もちろんそれは「悪い」生徒達の例で、今でも自分を慕う素晴らしい教え子達が一方でいるという話の中で、その対比として登場するのだった。
それを聞いた時の私は、「私はそんな『悪い』側になりたくない。先生を見て知らん顔するなんて絶対しない」と、素直に思ったものである。実に御しやすい子供である。
しかし洗脳が解けた後、中学生になってから、私は彼に道端ででくわしたことがある。正確に言うと私が目撃しただけで、向こうは気づいていなかったが、遠目に見て間違いなく彼だった。当時の私は過去の恨みを捨てて笑顔で挨拶出来るほどの胆力は無く、かといって彼を無視して「ダメな教え子」の一人として消費されるのもまっぴらごめんだったので、回れ右して彼に見つからないようにその場を立ち去った。
以来、一度も会ってはいない。おそらく今後も、二度と会うことはあるまい。
以上、今般SNSを賑わす「洗脳」という言葉から、ふと思い出してしまった話である。
人生のはじめの方で、私が出会った「ひどい大人たち」の間違いなく上位ランキングに入っているこの図工の先生であるが、彼の承認欲求を満たすために彼に下げられ、自尊心を損なわれた子供たちは、私の他にどのくらいいたのだろうか。
「洗脳」が罪深いというならば、彼の罪はいかほどのものなのかと今でも考える。彼はきっと、最後まで「いい先生」として退官を迎えたことだろう。
もはや皮肉でしかないが、彼が好きでしきりと標語のように用いていた言葉を引用して筆を置きたい。彼は一体、この言葉から何を学び取っていたのだろう。永遠の謎である。
”心で見なければものごとはよく見えないってことさ。大切なことは目に見えないんだよ。”
────サン=テグジュペリ『星の王子様』