海風想

つれづれなるままの問わず語り

自然乏しい都会で窮屈に育った子供だった。

「子どもは、自然豊かな田舎でのんびり育てるのが一番いい」

 

これまでの人生で、何度も耳にした言葉だ。

今はこの意見についての是非を問うつもりはない。地方で子育てをするメリットデメリットについて論じるつもりもない。

ただこういう意見の人から見たら、私はその「一番いい」とは真逆の子供時代を送った人間ということになる。彼らに私の子供時代の話をしたら、どのように感じるだろう。気の毒な子供だったと思うだろうか。あるいは私の親は酷い親だと考えるだろうか。

 

少し前に、Twitterで「お受験」の話題が出た。

自分のお子さんに小学校受験を考えた男性が、説明会に行ってみて驚愕した、そして実際に受験をさせるのは躊躇った、という一連のツイートを読んで、私は自分の子供時代を思い出していた。

 

結論から言うと、私は「お受験」に対して全く良い感情を持っていない。自分の子供には間違いなくさせないだろうし、身近な人間が自分の子供にさせようか迷って意見を求めてきたら「やめた方がいいよ」と答えると思う。

勿論、確固たる意思を持って受験をさせる親御さん達のことまで止めようとは思わない。「お受験」にだってメリットデメリットどちらもあり、私はたまたまデメリットばかりが印象に残ったが、メリットの恩恵を受けた子供達だって大勢いるに違いない(だからこそ、「お受験」は今に至るまで脈々と続いているのだろう)。

だからこれから話す内容には、どうしても私自身のネガティブイメージというフィルターがかかってしまうことはご了承願いたい。

また、何しろ20年以上前の話なので、今現在の実態とは異なっている部分も多々あろうかと思うので、怪談噺を聞く感覚で気軽に読んでもらえたら幸いである。

 

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幼稚園の後、私は「真っ直ぐ家に帰る」ということをした記憶がほとんどない。ごく小さいうちはあったのかもしれないが、少なくとも記憶にある限り、私は幼稚園の帰りは何らかの「習い事」「お教室」みたいなものに行っており、合間に友達と遊んだり映画や人形劇などを観に行ったりしていた。これらの行動は95%くらいは専業主婦の母が一緒であった。父はおそらく、猛烈に働いていた時期だったと思われ、その影は大変薄い。私の教育や「お受験」関連の諸事万端は母の手に任され、父はお金だけ出していたというのが実態だろう。

さて、この「習い事」「お教室」のうち、「お受験」に関わるものだけ列挙してみると、

 

・お教室A:先生の自宅で行うマンツーマンレッスン。「行儀・マナー」の類などを習っていたと記憶している。先生のことは「〇〇(苗字)のおばちゃま」と呼んでいた。先生は時々怖いが、基本的には楽しく通っていた。

・お教室B:10人ほどの生徒による、主に運動系の指導をする教室。ボールをドリブルしながらジグザグに走ったり、大縄跳びなどのほか、「知っている童謡をみんなの前で歌う」などのレッスンもあった。遊び感覚で楽しい時もあったが、先生には独特の体育会系のノリがあり、怖かった。

・お教室C:数人で一緒の部屋で学ぶ、「お勉強」系を学ぶ教室。左右の区別や時計の読み方など、一般常識から小学校の勉強にかかるようなものまで色々やった。勉強系は得意だったので比較的楽しくやっていたが、おしゃべりが多くてよく注意されていたようにも記憶している。

 

この他に、単発で図画工作の教室に行ったりしたこともあったが、メインはこのA〜Cだった。

当時の私はこの三つに通うこと自体は、さほど苦とは思っていなかった。テレビアニメや子供向け番組の中で描かれる、幼稚園から帰ってきたら即友達と遊びに行く、という生活と自分の現実は程遠かったが、それを特に不思議に思ってはいなかった。

実際、私が通っていたのは地元の幼稚園ではなかったので、一緒に遊ぶような友人は近所には誰も住んでおらず、親のサポート無しにはどこに行くこともできなかった。家と、親に連れられて行くどこかが私の世界の全てだった。

 

私が辛かったのは、この教室のための予習あるいは復習を母に叱られながらすることと、授業の間の私の行動を、家に帰って母から叱責されることの二つであった(授業は親が参観していることもあるが、そうでない場合、授業中の行動は逐一保護者に報告される)。

今から振り返れば、親の言うことは全く聞かず、際限なく自分の喋りたいことを喋り続ける、じっと座っていることすらできない野生動物のような当時の私に、人として最低限の礼儀作法や一般常識を教えたのは間違いなくこの「お受験」のためにやった訓育であったし、完全にこの日々が無駄であったとは思わない。しかし行動を共にする母は概ね不機嫌であり、母の機嫌を損ねないようにすることが私の日々の目標だった。

 

さて、そんな生活を2年くらい続けたのち、いよいよ試験となる。

もちろんこの間、模擬面接や模擬試験などは何度も行っているが、ここでは本番の試験の話をする。

 

小学校の受験は冬ではなく、前年の11月に行われる。みんなで揃いの紺のワンピース、白い靴下、黒い革靴などを着て、母も同じように紺色の上下スーツ、ここら辺はどうやら今も変わらぬ「お受験」スタイルであるらしい。

試験の内容は筆記試験、運動(実施しない学校もある)、面接、そして行動観察といったものが主流だ。

 

私が特に強く記憶に残っているのは、大本命の学校における面接と行動観察だ。

 

「お受験」の面接は通常、両親あるいは片親同伴のもと、何名かの教員から親子共々質疑応答を受ける。

私の記憶する面接は、両親揃ってのものだった。

父が勤め先を聞かれ、答えた社名が印象に残ったので口の中で復唱して、先生に「どうしたの?」と聞かれた場面があった。しかしその場は上手く誤魔化し、大事には至らなかった。

問題はその後の行動観察だった。

お題を聞き、制限時間内に画用紙の中の絵を、その場にある紙や、色をつける道具などで自由に仕上げるという課題だ。図画工作が得意だった私には訳のない課題であるはずだった。ところが私は、課題よりも周りの子供達を相手に自分のネタを披露することに夢中になってしまい、課題を満足に仕上げることが出来なかった。それどころか、盛り上がり過ぎて見張りの先生に注意された位である。6年の人生の中で一番というレベルにウケて、大いに気持ち良くなっていた私は、先生に注意されたことによってにわかに現実に引き戻され、子供心にも「やっちまった」と思ったものである。

結果、大本命であったその学校には見事に落ちる訳であるが、絶対安全と言われていた母の落胆はものすごかった。後で人伝に聞いたところによれば、それ以外の試験は完璧だったが、行動観察にかけては複数いる教員が全員×をつけたという。

この大本命以外の学校も私は全て落ち、結局公立校に通うことになった。幼稚園の同級の女の子は私を含めて三人いたが、どこにも受からなかったのは私だけだった。

 

大人になった今だから言える。

私を落としてくれた先生方は大変正しかったと。

なぜなら何をどう贔屓目に見ても、その志望していた小学校に、私が適応できたとは思えないからだ。よしんば運良く試験をパスしたとしても、入学後の生活は地獄であったのではないかと思う。何なら、結局合わなくて他の学校に移る羽目になったかもしれない。

そしてそれは、私だけでなく親もそうなった可能性がある。先祖代々働かなくても勝手にお金が入ってくるようなお育ちの父兄がゴロゴロしている中で、平凡なサラリーマン家庭に過ぎない我が家は明らかに浮き上がったことだろう。要するに「お受験」の世界で、私の家族ははじめから場違いだったのだ。

向こうもプロであるから、自校に合わない子供ははじめから弾くし、それはお互い不幸な人間を増やさずに済む合理的な方法とも言える。余計なお金も時間も割かずに済んでよかったのだ。

 

しかし、当時の母にそんな風に割り切れる余裕はなく、打ちひしがれた母は円形脱毛症になった。父に言われ、「ママ、中学はきっといい学校に受かるからね」と母に励ましの声をかけた時、母は泣き崩れた。大人でも泣くのだと、初めて認識した最初の記憶である。

母の名誉のために言っておくと、決して母は自分の見栄や承認欲求を満たすために、私に「お受験」をさせたがった訳ではない。一番の動機は、「早めにエスカレーター式に入っておけば、後が楽だから」である。中学高校と年齢が上がるに連れ、受験勉強は過酷になる。私には勉強漬けではなく、もっとのんびりと好きなことをして青春時代を過ごして欲しいと思ったのだという。

しかしその母の希望は完全に裏目に出てしまった。青春期の自分の自由を買うために、私は「のんびりと好きなことをする子供時代」を奪われ、青春期の自由も担保されることはなく、単に「どこの学校にも受からなかった」という敗北感だけを、人よりも早く体験しただけの結果に終わってしまった。

 

自らの意思によらなかったものとはいえ、いやそうでなかったからこそ、この時の「挫折」と「屈辱」の記憶は私の情操に濃い影を落とし、私は「あの時馬鹿にした奴ら(幼稚園の同級生ら)を見返してやる」という暗い情念に突き動かされて中学受験に邁進していくことになる。

 

以上が私の「お受験」体験記である。

書かれている内容は基本的に自分の記憶によるもので、一部の補足的な内容(不合格の理由など)を除いては、親など他の大人による聞き語りではない。6歳に満たない子どもでもこれ位のことは覚えているものである。

しかし物心ついているとは言っても、やはり子どもは子どもである。自分の世界が親の世界と密接にリンクしており、親の感情にはダイレクトに影響される。

私にとっては、母が「お受験」を通じてストレスを抱え、いつもピリピリし、挙げ句の果てに泣き崩れるに至るという状況が、自分が志望校に行けないということよりもよっぽど重篤な問題だった(そもそも自分で志望した学校ではない訳だし)。

あんな思いをするくらいなら、普通に受験などせず公立の小学校に行き、幼稚園の帰りはのんびり公園で遊んで過ごしたかったし、母も私をあんなに叱らなくて済んで、お互いにここまでストレスを抱えることはなかったのではないか。

後年、このことは母にも伝えたし、「私もそう思うよ」「あれは失敗だったね」と本人も述懐している。

あの「お受験」を通じて、母と私の関係が壊れなかったことだけが、不幸中の幸いだったと言えるかもしれない。受験が成功したとしても、親子関係が破綻してしまう例など、世の中には幾らでもあるからだ。私は単に運が良かっただけだ。

 

それから四半世紀近くの年月が経った今でも時々、見覚えのある紺色の、きちっとした身なりの親子を街中で見かけることがある。

 

願わくばあの子どもが、

あの時の私のような思いをしませんように。

そしてあの親御さんが、

あの時の母のような思いをしませんように。

 

見かける度に、そんな祈りを胸中で捧げずにはいられない。