臆病な自尊心と尊大な羞恥心。
その言葉に初めて出会ったのは、確か高校一年の現代国語だったと思う。
面白いとは感じたけど、その言葉の意味を理解するには当時の私の世界は明る過ぎた。
暗黒の小学校時代を経て、必死に勉強して自ら志望校を勝ち取ったという成功体験、そして進学した学校の水に合い、先生にも友人にも恵まれたという幸福が、周囲を輝かしく照らしていた。
望めば何でも出来るという万能感とまではいかなくても、自分には特別な才能があり、必ず何者かになる選ばれた人間である、という根拠のない自信が私の脊髄を支えていた。
虎になってしまった李徴の気持ちを理解するには遠かったのだ。
それから約10年。
年長者からは「今が一番いい時ね」なんていう羨望混じりの呪いを投げかけられがちな、20代前半。私は面白おかしさとは対極のどん底にいた。
大学までは順当に行っていたのに、あまり深く考えずに適当に就活した結果当然のごとく失敗して、何とか引っかかった中小企業によく考えずに入社して数年。そこは同級生たちが入ったどの就職先よりも待遇が悪く、給料も安ければ休みも少なく、世間知らずの生意気な若造でしかなかった私は見事に先輩方から塩対応されていた。
そんな何もかも、世界の何もかもが、何より自分の愚かさが何よりも呪わしくて、私は世界に絶望して毎日夜になると独りで泣いていた。
「こんなはずじゃない」
「自分はこんなとこにあるべき人間じゃなかったのに」
「あの時もっと」
「あの時もし」
不毛で後ろ向きな問いかけばかりが頭にこだまし、何よりも輝かしかった過去の自分の姿が眼裏を焼いた。
まさしく「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」に心が食い荒らされ、いっそ虎になって竹藪に逃げ込みたいけれど、それもかなわず泣くばかりの無力な人間だった。
今思っても、あれが人生の「底」だったと思う。
どうやって立ち直ったのかは、もうはっきりとは覚えていない。
立ち直ったというよりは、「諦めた」という方が正しいのかもしれない。
何者でもない、特別な何かも持っておらず、特に選ばれてもいなかった自分の身の上を、「こんなものか」と受け入れたのだ。しかしそれは精神的な安寧と引き換えに、向上心も努力も捨て去り、多くを望まなくなっただけとも言える。
私は名高い人間はおろか、虎にすらなれなかったのだ。
諦めて人のまま生き永らえたものの、この時の「絶望」というのはその後もずっと、生涯私を脅かす影となった。
あの頃よりは歳を取って人間が図太くなってる分、そう易々と向こうには引っ張られないのだけど、時々闇の中から忍び寄っては、首の後ろをざらりと撫でていくことがある。
そんな時は、素直に涙を流しつつ、猫でも撫でてやり過ごすしかない。
そういえば、中島みゆきの「狼になりたい」という歌があるけれど、あれもやはり世界に絶望してる人間の心の叫びを謳っている。
でも私は思う。
たとえ絶望しても、狼や虎みたいな、気高い姿になれるならまだいいではないか。
現実には、絶望に追われた夜の翌朝は、腫れぼったい目の醜い寝起き顔の人間しか残らない。
何一ついいことはない。
何者にもなれない人間は、何者でもない人間でしかない。
人間だからこそ出来る唯一の対抗手段として、この絶望を文章で書きおこしておこう。
そうすることで、幾らかでも解毒になるはずだから。