海風想

つれづれなるままの問わず語り

いっそ虎になれたら。

臆病な自尊心と尊大な羞恥心。

 

その言葉に初めて出会ったのは、確か高校一年の現代国語だったと思う。

中島敦の『山月記』の一節だ。

面白いとは感じたけど、その言葉の意味を理解するには当時の私の世界は明る過ぎた。

暗黒の小学校時代を経て、必死に勉強して自ら志望校を勝ち取ったという成功体験、そして進学した学校の水に合い、先生にも友人にも恵まれたという幸福が、周囲を輝かしく照らしていた。

望めば何でも出来るという万能感とまではいかなくても、自分には特別な才能があり、必ず何者かになる選ばれた人間である、という根拠のない自信が私の脊髄を支えていた。

虎になってしまった李徴の気持ちを理解するには遠かったのだ。

 

それから約10年。

年長者からは「今が一番いい時ね」なんていう羨望混じりの呪いを投げかけられがちな、20代前半。私は面白おかしさとは対極のどん底にいた。

大学までは順当に行っていたのに、あまり深く考えずに適当に就活した結果当然のごとく失敗して、何とか引っかかった中小企業によく考えずに入社して数年。そこは同級生たちが入ったどの就職先よりも待遇が悪く、給料も安ければ休みも少なく、世間知らずの生意気な若造でしかなかった私は見事に先輩方から塩対応されていた。

そんな何もかも、世界の何もかもが、何より自分の愚かさが何よりも呪わしくて、私は世界に絶望して毎日夜になると独りで泣いていた。

「こんなはずじゃない」

「自分はこんなとこにあるべき人間じゃなかったのに」

「あの時もっと」

「あの時もし」

不毛で後ろ向きな問いかけばかりが頭にこだまし、何よりも輝かしかった過去の自分の姿が眼裏を焼いた。

まさしく「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」に心が食い荒らされ、いっそ虎になって竹藪に逃げ込みたいけれど、それもかなわず泣くばかりの無力な人間だった。

 

今思っても、あれが人生の「底」だったと思う。

 

どうやって立ち直ったのかは、もうはっきりとは覚えていない。

立ち直ったというよりは、「諦めた」という方が正しいのかもしれない。

何者でもない、特別な何かも持っておらず、特に選ばれてもいなかった自分の身の上を、「こんなものか」と受け入れたのだ。しかしそれは精神的な安寧と引き換えに、向上心も努力も捨て去り、多くを望まなくなっただけとも言える。

私は名高い人間はおろか、虎にすらなれなかったのだ。

 

諦めて人のまま生き永らえたものの、この時の「絶望」というのはその後もずっと、生涯私を脅かす影となった。

あの頃よりは歳を取って人間が図太くなってる分、そう易々と向こうには引っ張られないのだけど、時々闇の中から忍び寄っては、首の後ろをざらりと撫でていくことがある。

そんな時は、素直に涙を流しつつ、猫でも撫でてやり過ごすしかない。

 

そういえば、中島みゆきの「狼になりたい」という歌があるけれど、あれもやはり世界に絶望してる人間の心の叫びを謳っている。

でも私は思う。

たとえ絶望しても、狼や虎みたいな、気高い姿になれるならまだいいではないか。

現実には、絶望に追われた夜の翌朝は、腫れぼったい目の醜い寝起き顔の人間しか残らない。

何一ついいことはない。

何者にもなれない人間は、何者でもない人間でしかない。

 

人間だからこそ出来る唯一の対抗手段として、この絶望を文章で書きおこしておこう。

 

そうすることで、幾らかでも解毒になるはずだから。

誤解を受けやすい言動はその人の罪なのか?

世の中には「誤解を受けやすい人」というのがいる。

かくいう私も、その一人だ。

先輩や上司などにある日突然、特に何をしたというわけでもなく、ものすごく嫌われて、冷淡な態度を取られたことが過去何度かあった。

ここでは「ある日突然」という言葉を敢えて使う。

相手は何度か「これは私に良くない印象を与えるよ(与えているよ)」というサインを出していたのかもしれないし、周りの人間には、「あんなことしたら嫌われるだろうな」という前兆が見えていたのかもしれない。

しかし、私自身はそれらに全く気付いていなかった。
その結果「ある日突然」「何もしてないのに」嫌われた、という認識となったのである。
当然、何で嫌われているのかわからないから、対応策もわからない。そもそも相手には嫌われているので、何かしら手を打ちたくても取りつく島もない。
人間関係としては完全に「詰み」である。

 

また、こんなこともあった。
小学5年生の時、教室でふと顔を上げたら、向こうを歩くクラスメイトのYちゃんと目が合った。彼女とは普段から非常に仲が悪く、その時も目が合った瞬間に彼女は「あっかんべー」をしてきた。頭に来た私はそれに対し小声で罵倒していたら、その様子を担任の教師に見咎められて、結果的にYちゃんと二人で呼び出された。
教師はまず、私が罵倒していた理由を問うたので、「Yちゃんに『あっかんべー』をされたからです」と答えた。するとなぜそんなことをしたのか問われたYちゃんは、「(私に)睨まれたから」と答えたのである。
当然、私は睨んでなどいない。ただ偶然目が合っただけである。しかし正直にそれを伝えると、教師はこう私に言ったのである。

「睨まれたと誤解されるようなあなたも悪い。」

 


自分の例ばかり列挙しても単なる恨み節になってしまうので、もう少し客観的な例を出そう。


野原広子さんの『ママ友がこわい』という漫画をご存知だろうか。
https://ddnavi.com/serial/257950/a/


主人公は幼稚園に娘を通わせる主婦で、彼女は「とある誤解」が原因で、仲の良かったママ友と仲違いしてしまい、現在は挨拶しても無視され、イベントなどで度々嫌がらせを受けている。


詳しくはぜひ本編を読んで頂きたいが、その「誤解」の内容は「自分が言った何気ない一言が子供達の口を通じる内に曲解され、相手の子供の悪口を言っているというように誤解されたから」という、主人公側から見れば非常に理不尽なものだ。主人公はその事実を知り、「そんなつもりはなかったのに」「それで挨拶まで無視するようになるなんてあんまりだ」と嘆く。読者側も当然、それに共感するだろう。


しかし一方で、例えばこの漫画に対してこのようなコメントが付いていた。


「誤解されたのは気の毒だけど、ふつうに子供の悪口言われたら私ならキレると思う」


それも至極ごもっともな意見だ。
「誤解」である、という事実を知らなければ、自分の子供の悪口を、ましてや親しいと思っていた人が陰で言っていると知ったら立腹するし、今後その人との付き合いを考えるようになるというのも、当然の感情である。
(いきなり無視したり、意地悪したりといった、態度の表し方には問題があるだろうが、これについては後述する)


この作品に出てくるような「誤解」が原因で人間関係が拗れてしまうようなことは、残念ながら日常的にどうしても起こってしまうことだし、これは一概にどちらが悪いとも断じられない。


そこで冒頭の「誤解を受けやすい人」の話に立ち返る。


「誤解を受けやすい人」というのは、この漫画に出て来たようなことを人生で何回か繰り返している。
それももっと厄介なことに、この漫画の例のように明確に「悪口を言っていたから」と原因が特定できることは実は稀で、多くは日常の(当人は全く意識していない)言動の積み重ねの末に起こることだったりする。そうなると、自覚のない本人には全く手の施しようがない。
結果、当人には全くそのつもりがないのに、相手を舐めている、軽んじていると思われてしまう→疎まれる・嫌われる なんていう事態があるのである。


私がここで疑問に思っているのは、こうなった場合、多くは「誤解を受けるような言動を行った側」のみが責められがちということだ。
かつて睨まれたと誤解された私に教師が言い放ったように、

「誤解されるあなたが悪い」

という言葉が、こうした人達にはよく浴びせられる。
「自業自得」という言葉もある。
今ある人間関係の有様は自分の言動に由来するのだから、この結果が悪かったとしてもお前の責任だ、ということである。

自業自得。確かにそうかもしれない。

「誤解を招きやすい言動」というのは多くの場合、相手や周りがこれをどう受け取るか、それに配慮していなかった結果であることが多い。だからそれを改めて、もっと気を遣って生きるようにしろ、というのはその通りだ。
人間関係を円滑にするためには、まず周りを見ることが肝要ということも勿論わかる。
それらを怠ったのだから、結果として周りの態度が悪くなるのは確かに「自業自得」かもしれない。

 

しかし一方で、「誤解を招きやすい言動」をしている人というのは、自分のどの言動が「誤解」を招いているのか、そもそも自分の意図していない形で受け取られる可能性があるということにすら、気付いていないことが大半である。(で、あるがゆえにそういう言動をとるのではあるが)


つまり「この言動はこのように受け取られるよ」ということを誰も指摘してくれなければ、何を改めればいいのかすらわからない。
結果的に何も改善されず、「何で私はいつのまにか皆に嫌われているんだろう」と一人落ち込み、自然と人間関係から遠ざかるようになって、益々「誤解を招きやすい言動」は悪化するのである。

 

私は幸いにして「あなたのこういう言動はこういう風に受け取られるよ」と指摘してくれる、良い上司に恵まれた。
私としては全くそのつもりがなかっただけにそれは大変衝撃だったのだが、と同時に、今まであったような「ある日突然いきなり嫌われていた」というのも、ああこういうことが原因だったのかもしれないなぁと省みて、非常に恐ろしくなったのである。
何が一番恐ろしいかといえば、省みて当時のことを記憶の限り思い出してみようとしても、やっぱり何で嫌われたのかがわからなかったからだ。(ぼんやりこういうことだったのかな?とは思っても、飽くまでそれは憶測でしかない)

自覚していないのだから、勿論記憶になど留まっているはずがない。私にとってそれは永遠のブラックボックスなのである。

 

そしてもう一つ、
誤解を招きやすい言動を改めもしない人間が、怠ける言い訳をしているようにも受け取られるかもしれないが、それでも敢えて言いたいのは、

「誤解する側にも責任はないの?」

ということだ。

 

もっと言うならば、誤解をする、そのこと自体は人間だから絶対にある。それは避けられない。しかし誤解をしてしまった結果、相手を害するような言動をする(例えば無視する、冷淡な態度で接する、意地悪をする、など)のは正しいことなの? ということを問いたい。

先に挙げた例を取るならば、

 

・相手から睨まれたら、「あっかんべー」を返していいのか?

 

・子供の悪口を言った相手を、いきなり無視して意地悪していいのか?

 

・態度が悪い後輩を、指導もせずに突き放していいのか?

 

「あっかんべー」の例は子供同士の喧嘩であるかもしれないが、では「相手の態度が気に入らなかった」「こういう言動が不快だった」ということを一切伝えることなく、いきなり嫌悪という感情を露わにするのは、果たして真っ当な大人の態度と言えるだろうか?

それは「睨まれた」と視認した相手に「あっかんべー」と返す子供と同じレベルの行為ではないだろうか?

またこの相手が、例えば自分の子供同士が親しい間柄であるとか、職場の後輩であるとか、要するに「これからも関係が継続していく」相手であった場合、そのような言動で応えることは自分たちのみならず、両者の所属する集団にも悪影響を及ぼすのではないだろうか?

ましてやそれが、自分の誤解であったとしたら? そういう言動をとってしまったことは、ただ人間関係を一つ壊しただけの「嫌な行い」として人生に刻まれるのである。

 

誤解を招かせてしまう側で何を偉そうなと思われるかもしれないが、それでも私はお願いしたい。


相手を不快に思う事態が生じた時、相手を拒絶する前にもう一度だけ立ち止まってほしい。
相手がきちんと話ができるのであれば、「あなたのこういうところが不快だった」ということを、言葉でもって相手に伝えてほしい。
そうしてみて、それでも態度が改まらない、もしくは全く聞く耳を持たないということであれば、そこで初めて相手との関係を終わらせる、という選択をとっても遅くはないのではないか。
(相手が部下や親族であった場合、そう簡単に切ることもできないとは思うが)

 

確かに自分の不快感を言葉に出して説明するというのはとてもエネルギーがいる。
そんなリソースを割くほど、相手に対して思い入れはない、ということもあるかもしれない。むしろそんなことは言われる前に気付けよ、という苛立ちを抱くかもしれない。
しかし、だとしたら負の言動をもって相手に接するのだけはやめてほしい。静かに遠ざかって、最低限の会話はしても心を開かないという接し方に留めてほしい。

それだけでも相手は、「自分は何かしてしまったかもしれない」と気付く可能性はあるし、何も相手を傷付けるような言動をして自らを貶めることもない。

何より自分が相手に感情リソースを割く気がないのであれば、相手に割かせるのも筋が違うというものだろう。挨拶すら無視したり、冷淡に接したりすることは、相手の感情を削り、魂を消耗させるものだということを忘れないでほしい。
自分が傷ついた時に人はしばしば忘れがちであるが、自分を傷つけた相手も自分と同じ人間で、傷つく心を持っているのだ。

 

そしてもし、相手の態度が改まるならまだこの関係を継続したい、あるいは、相手との関係性が悪化すると組織の不利益に繋がるから、何とか改善を試みたい、そう思えるのなら、ぜひ上記のような「話し合い」を続けてほしい。
それに対する相手の反応こそが、その後相手との関係を継続する価値があるのかどうか推し量る、まさに指標になるだろう。
逆上したり全否定したりするようであれば、その人は「それまでの人」であるし、誤解されていることに「気付いてすらいなかった」のであれば、まだ改善の余地があるのだ。
そして気付いていなかったのであれば、それを教えてあげることは、その人にとってどれほど助けになるかわからない。何となればそれは、自分の人生のあり方すら見直す機会になるのだ。

 


誤解を受けやすい言動は全て、その人の罪、自業自得なのか?


私の答えは「否」である。

そもそもこれは、誰が悪い、悪くない、という話ではない。
敢えてそういう言い方をするなら、「誤解を受ける方も悪いけど、誤解する方も悪いし、今までそれらを指摘してくれなかった周りもみんな悪い」ということになる。

なぜなら「誤解を受ける言動」というのは、「誤解をする人間」が居て初めて成立するからだ。両者の間に何かしらの情動が生まれたとして、その責任が片方にしかないという事態はあり得ないのである。
また生じた「誤解」が継続し、その後両者の関係悪化が進行することにおいては、お互いが全く秘密裡に行っている場合を除いて(通常そんなことはあり得ない)、放置している周りにも責任が及ぶ。
実はこういうことは、客観的な視点を持つ第三者が仲介に入った方が、解決の糸口が見つかることが多い。それをせずどちらか一方の肩を持ったり、ただ傍観していたりするだけでは、その集団の空気は悪化していく一方なのである。

 

しかしこれはそもそも、「言動が、当人の意図とは違う形で相手に伝わった」ことに端を発する、言うなれば認知の齟齬によって生じる問題である。

これに対する解決策は、「どっちが悪いか」を論じることではなく、「その齟齬を解消する」ことである。そのために「話し合い」は有効なのだ。

誤解を与えた方は、確かにその無配慮さなどを改める必要があるだろう。しかし、それについて何の弁明もできず、誤解を解消する機会さえ与えられずに、その人格を否定されていいわけではない。

また誤解した方も、「誤解」であることが判明すれば不快感も和らいで、結果的にプラスの方向に進むことになる。

 

「(自分も含めて)誰かが悪い」と決めつけることは、とても楽で安直だ。
だからこそ人間関係で何か問題が生じた時、人は「誰が悪いのか」をまず探したがる。
しかしあるゆる事象は大概、様々な要因が絡み合って結果につながっているので、何か一つ「これが原因」と断じることはできない。またそれが「原因」だったとしても、即ち「悪」というわけでもない。
「原因」となる人を特定したとしても、「その人が悪かった」で終了していいものではない。「その人はなぜそのような言動に至ったのか」「再発を防止するのはどうすればいいか」などをきちんと分析し、解決策を見出さなければ、同じようなことはこの先も繰り返されるだろう。何より「その人」は永遠に「そういう原因を生み出す人」のまま放置されることになる。それでは誰かの溜飲を下げることはできたとしても、根本的に問題は解決されないだろう。

 

「誤解を受けやすい言動が悪い」という言葉の裏には、「だから自分は悪くない」という「逃げ」が見え隠れする。
私は「誤解を受けやすい」族の一人であるからこそ、安直にこの結論に逃げることはなく、真摯に事態と向き合っていきたい。
それが小五の時、「睨まれると誤解されるようなあなたも悪い」と言った教師に対して、理不尽に思いながらも何も反論が浮かばなかった自分が、今出来る精一杯の回答であるように思う。

君の名はゴジラ〜シン・ゴジラと“名づけ”の話

庵野秀明監督『シン・ゴジラ』についてふと考えたことをまとめてみたが、ツイートでは長過ぎたのではてブに投稿してみる。

 
(※以下、『シン・ゴジラ』の核心部について思いっきり触れるので、ネタバレが嫌な人はブラウザを閉じることをお勧めします)
 
この映画の中では、ゴジラは最初から「ゴジラ」ではない。
 
もちろん、映画を見に来ている人達は始めから「ゴジラが出てくる」と知っていて見に来ている。
何しろタイトルが『シン・ゴジラ』だし、半世紀も前に作られた超有名特撮映画のリメイクだということも知ってるし、何なら「ゴジラ」がどういうビジュアルかも知っている。
だから始めに出てきた不気味な肺魚みたいなやつ(ゴジラ第二形態)については「ん?これとゴジラが戦うの? ああ、これがゴジラになるのか」などと逡巡することになる。
 
でもそれは、私たちが「ゴジラ」を知っているから。
考えてみれば当たり前である。
 
ところが、劇中(『シン・ゴジラ』の物語世界)においては、登場人物たちは「ゴジラ」を知らない。
この物語世界は、「円谷英二の生まれなかった日本」という裏設定がある。
当然、戦後にゴジラは作られていないし、何ならウルトラマンも怪獣も居ない。
だから劇中で「怪獣」という言葉は一度も使われない。
海中から巨大な尻尾が現れた瞬間も、その後尻尾の主が街に上陸して家屋を破壊していた時も、誰も「怪獣だ!」という台詞は吐かない。
物語前半部におけるゴジラの名称は、飽くまで「巨大不明生物」である。
 
この「巨大不明生物」に「ゴジラ」の名が付されるのは、パタースン大統領特使によって、牧博士の遺した資料が詳らかにされて後である。
この時、竹野内豊演じる赤坂補佐官は「こんな時に名前なんか……」と呟く。
確かに、蒲田に上陸した謎の生物に大田区辺りをボロボロに破壊され、その対応にてんてこ舞いになっている立場からすれば、破壊した当の生物がゴジラであろうと巨大不明生物であろうと大したことではない、そんなことよりあの生物を何とかしろ、そう思うのも無理はないし、実際あのシーンを最初に見た私もそう思ったものだ。
 
だが、ここで「巨大不明生物」が「ゴジラ」と呼ばれるようになったことは、実は大きな意味がある。
これまで漠然とした「巨大不明生物」という概念だったものが、「ゴジラ」と名を付されることによって、血の通った、れっきとした「リアル」の存在として、人々の前に浮かび上がってくるからである。
 
劇中で、議事堂を前に「ゴジラを倒せ」と「ゴジラを守れ」という対照的なプロパガンダを叫ぶ群衆が描かれているが、このように人々が「排除」派と「擁護」派に分かれたのも、ゴジラに名前がついてからではないだろうか。
名前をつけるということは、人々の感情を呼び起こすのに最も簡易で有効な手段である。
もっと平たく言えば、人は物に名前を付けると「愛着」がわくのだ。
 
例えば、家の庭に猫が迷い込んできたとする。迷い込んできた時点では猫は単なる「生活に入り込んできた異質な存在」であるが、名前をつけてしまったら、「うちの子になるか」となるのが人情だ。
「外の世界」の関わりのない存在だったものが、名づけによって「こちら側の世界の一員」となる瞬間である。
逆に言えば、「どうでもいい存在」には名前など付けないだろう。
普段使っているペンや定規などの道具に名前をつけている人が居れば、それはその人がその道具を「とても大切に思っている」証拠となる。
 
「愛着」と書いたが、名づけによって引き起こされる感情は、好意的なものだけではない。
嫌な上司や隣人などに「あだ名」をつけるのは、自分の悪意を名前によって固定化する行為だと私は思っている。
「好き」の反対は「無関心」という言葉があるが、実際関心のないものにはあだ名もつけない。
悪いあだ名をつけるのは、それだけその人に対して関心がある証である。
 
話が逸れてしまったのでゴジラに戻すと、「巨大不明生物」と呼ばれていた生物に「ゴジラ」の名前がついたことで、人々は特定の感情を抱くようになる。
牧博士は荒ぶる神の化身として、「呉爾羅(GODZILLA)」と名付けたことになっているが、この名前に引っ張られ、皆しばしばゴジラ人智を超えた能力に敬意を表するようなコメントを口にする。目の前で自分の生活圏が破壊されている様を目にしているにも関わらず、「くそ、ゴジラめ!」などと罵倒する人間は一人もいない。神に悪態をついても仕方がないとでも思っているかのように。
唯一、ゴジラの破壊活動に怒りを示しているように見えるのは矢口蘭堂だが、彼の怒りの矛先も、ゴジラそのものというよりは、無力な自分自身に対して向いているように見受けられる。
ゴジラが「シーラカンス」とかだったら、果たして同じように人々が反応したかどうか。
牧博士の名づけは、だから非常に巧みだったのである。
 
陰陽師』の中に、「名前」とは「呪(しゅ)」だ、と表現されているシーンがある。
その人の名前はその人をその人足らしめている一種の「縛り」であり、その名前がついているからこそ、その人はその人でいられる(だから悪い人間に名前を知られてしまうといいように支配されてしまう恐れがある)、という考えである。
この手の「名前」にまつわる呪術的な思想は東洋にはしごく一般的なもので、例えば前近代の日本において高貴な人物は本名を呼ばれない、いわゆる「諱(いみな)」の考え方や、中国の「字(あざな)」、子供にわざと酷い名前をつけて悪霊にさらわれないようにする風習など、数え上げたらきりがない。
 
庵野監督がそこまで意識したかは憶測でしかないが、私はゴジラの名づけに対しても、このような呪術的な意味を感じた。
劇中で「巨大不明生物」に「ゴジラ」と名付ける必要があったのは、ゴジラを支配してやろうとは思わないにしても、「駆除対象」として人々の感情をゴジラに向けさせるために不可欠なプロセスだったのである。
その一方で、「ゴジラ」と名前がついてしまったせいで、なんだか攻撃されているゴジラが可哀想になってしまうのも、これもまた人の感情の面白いところだと思う。
 
この「名前をつければ愛着が湧く」ということを利用すれば、日常生活はもう少し快適になるかもしれない。
試しに朝の満員電車で、ぐいぐい押してくるおばさんとか、意地でもスマホを見ているおじさんとか、そういう「名もなき人々」の行動にイラッとした時、脳内で彼らに名前をつけてみてはどうだろうか。
名前がついた途端に、少しだけ尖った感情が和らがないだろうか。それも、「オソノさん」とか「山田くん」とか、何かほのぼのさせる名前をつけてみるとなお効果的だと思う。(これは、嫌いな人間の名前などを付けてしまった場合、逆にイラッとさが増してしまう恐れがあるので注意が必要だ)
人は「名もなきもの」に対して殊更冷淡になる傾向がある。
匿名掲示板の恐ろしさはまさにそれで、実名公表しろとまではいわないが、名前がついている相手に対しては、自分と同じ血の通った人間であるということを、より意識しやすいのではないかと思う。
もっとも、名前がついていることによって、その名前を祭り上げて皆で叩く、「炎上」が起こるのも、またジレンマではあるのだが。
 
ゴジラの名前だけで話がとんでもない方向に行ってしまったが、こういう関係のないところにまで考察が果てしなく広がっていくのも、『シン・ゴジラ』が名作ゆえということで、今夏も良質な作品と出会えた幸福感を噛みしめながら一旦筆をおきたい。

愛だけが地球を救うのか?~『バケモノの子』考

細田守監督の最新作『バケモノの子』について書こうと思う。

www.bakemono-no-ko.jp

※文中では物語の核心部分に遠慮なく触れているので、未見の人は閲覧注意でお願いします。

 

この物語の主軸となるテーマは「親子」である。

 

物語は、少年・蓮(れん)が母を亡くし、父も行方不明のまま、「一族の唯一の男の子だから後継ぎとして育てたい」という「無償の親子の愛」からは対極に位置する損得勘定で彼を引き取ろうとしている親類から逃げ出し、渋谷の街を彷徨うところから始まる。

一方、バケモノの街・渋天(じゅうてん)では、トップである宗師が突然引退すると言い出し、猪王山と熊徹という二人の猛者の間で跡目争いが勃発する。

多くの人に慕われ、人品共に申し分ない猪王山とは対照的に、熊徹は実力はぴか一だが粗暴で弟子一人居ない孤高のワンマン。しかし、宗師になるためにはどうしても弟子をとらなければいけない。

そんな熊徹が面白半分に拾ったのが先述の蓮少年というわけである。

彼は蓮に「九太」という名を与え、以降師弟であり親子であり口さがない悪友でもあるような、「疑似家族」の形で寝食を共にするようになる。

最初は他に行くところがないからと渋々弟子になったような九太であったが、ライバル・猪王山に比べて人望がまるでなく、天涯孤独である熊徹の身の上に自身を重ね、自分も彼のように強くなりたいと志すようになる。

一方、熊徹は今まで独りで好き勝手やってきた分、人に何かを教えるということがまるで出来ない。すぐ癇癪を起こしては投げ出してしまう。ところが見よう見まねで自分に追いつこうとする九太の姿に、だんだん教え育てることの喜びを見出すようになる。

そうして二人は師弟として共に切磋琢磨し合うことで、周りの人間が驚くほどの成長を共に遂げるようになる。

 

ここまでは、「親子の成長物語」の王道を行っている。

子供は子供で、血の繋がりどころか種族の違いすら乗り越えて「親」なるものを見出すことで成長するし、親は親で、子を「育てながら、育てられる」という形で成長を遂げる。

 

途中、人間の世界の少女・楓と出会って人間界の智慧に触れ、また行方不明だった実父も見つかった九太(蓮)は熊徹のもとを去り、人間の世界に戻ろうともする。

だが、猪王山との宿命の対決の時に九太は熊徹を見守り、魂は共に戦うことで精神的に熊徹を支え、ついに熊徹は猪王山を打ち倒す。このシーンは実に感動的である。今まで「親も師もなく」「たった独りで強くなった」それゆえに「誰かを守る強さは持たなかった」(=人の上に立つ器ではない、まして宗師は務まらない)とされていた熊徹が、九太という無二の弟子でありパートナーを得ることで最強の剣士になるのである。

ところが熊徹は、猪王山の長男・一郎彦が、父を勝たせたいと思うあまり、背後から投げつけた剣によって倒れてしまう。実は一郎彦は猪王山の本当の息子ではなく、猪王山が人間界で拾って、密かに育てていた人間の子であった。父・猪王山を慕い、いつか父のように立派なバケモノになりたいと思っていながら、一向にバケモノとしての特徴が現れない自身に焦り、その結果心に闇をため、ついに一郎彦は闇に飲まれてしまう。(この世界では人間はその肉体の脆さを補うために心に「闇」を宿すとされており、それはバケモノの世界では危険物として扱われ、ゆえに人間をこの世界に住まわすのは禁忌とされている)

 

この闇堕ちした一郎彦と九太の対決が物語最大のクライマックスになる。そしてこの九太を助けるために熊徹は宗師としての地位を捨て、九十九神に転生して九太の「胸の中の剣」になる。

これによって熊徹は九太と二度と会えないことになるが、彼はいつも九太に寄り添い、見守ることが出来るようになる。そして人間が持つ「心の闇」を克服し、「全き剣士」として生きることが出来るようになったのである。

自分勝手で天涯孤独のバケモノであった熊徹が、血の繋がりもないたった一人の人間の少年のために、ここまでのことが出来るようになったのである。

なんという友愛。なんという献身。実に感動的な親子の物語であった。

 

……なんてことには、当然ならなかった私は、声を大にして言いたい。

「ちょっと待てよ」と。

 

これが「親子の物語」であるなら、描かなければいけないもう一組の親子を忘れてはいないだろうか。

猪王山・一郎彦親子である。

 

これまで、熊徹とライバルの猪王山はことごとく「対照的」に描かれてきた。

猪王山が礼儀正しく人格者なら、熊徹は粗暴で下品。猪王山が大勢の弟子を抱えているのなら、熊徹は一人の弟子も育てられないワンマン。猪王山に二人の息子が居れば、熊徹は天涯孤独。

ところが強くて人格者で完璧な猪王山だが、同じ「バケモノの親」としては熊徹とは対照的に「失敗」してしまう。

禁忌を冒して堂々と人間を弟子にしていた熊徹とは逆に、猪王山は息子が人間であることをひた隠しにし、何となれば当の息子にすらその事実を隠してバケモノとして育て続ける。

それは「息子のためにはそれが最良」と考えた猪王山の親心でもあっただろうし、品行方正・清廉潔白で通っている自分が、「人間を育てている」なんていう掟破りを行っていることを知られたくなかった、という、彼自身のエゴも含まれていただろう。

しかしその結果、息子はその「歪み」を独りで抱え込み、心の闇に飲まれてしまうことになる。これは不幸が重なったこととはいえ、親である猪王山に責任があることは間違いない。

 

ところが、である。

この猪王山、ただひたすら意気消沈しているだけで、息子の失態と何ら向き合っていないし、事態収拾に何の尽力もしていないのである。

 

本来、これは猪王山・一郎彦親子の感情の齟齬から生じた問題であるのだから、その「オトシマエ」をつけるのは父である猪王山の当然の役目であるし、もしこれが「親子の物語」であるのなら、このような「失敗」にどう対処していくのかも描く必要がある、というか、むしろそこが一番重要である。

しかしながら猪王山はその後、徹夜で付添でもしていたのか息子の枕辺で突っ伏している姿が描かれただけで、二人の間にどういう対話が為されたのか、人間であることを隠して育てられた(言うなれば騙されていた)一郎彦は父を許して受け入れられたのか、などは一切描かれていない。ただひたすら、「熊徹の献身」と「九太の成長」だけがウツクシク描かれてめでたしめでたしと強引に結ばれているのである。

これでは、「親子の物語」としては誠に中途半端であると言わざるを得ない。

 

世の中はままならぬことばかりである。

全ての親が子供を無条件で愛せるわけではないし、全ての子供が親を慕うわけでもない。

また、たとえ精一杯の愛情を降り注いだとしても、その愛情が全て子供にとってプラスに作用するわけではないし、むしろ弊害になってしまうことは沢山ある。

猪王山のような人格的に優れた人物が、子供にとっても理想的な親であるかといえば必ずしもそうではない。むしろ熊徹のような野放図な人間の方が、悩み苦しみながらも良き親として成長していくこともある。

「親子」の問題は誠に複雑で、理想や綺麗事だけでは語れないのである。

 

ところがこの『バケモノの子』で描かれた親子は終始一貫「綺麗事」である。

実母だけでなく実父も当然のように蓮少年を愛していたし、母実家の妨害もあったにせよ子供の時から実質ほぼ「ほったらかし」にされていた実父に対して、蓮自身は何ら悪い感情を抱いておらず、「父」として当然のように受け入れる。

一郎彦は闇堕ちしたにせよ根底にあったのは父への深い敬愛であるし、熊徹に至っては親子でもなかなかやってのけられないような献身を軽々とやってみせる。

絶対的な前提が「親子は慕い合うもの」「親は子に対して、あるいは子は親に対して、無条件で何でもしてあげようとするもの」などという、使い古された親子観を地で行っている。

そうして、それに伴う弊害は完全に「スルー」されている。猪王山・一郎彦親子の決着がまるで描かれなかったのは、「例外を認めない・認めたくない」意思表示にも見えて、見ていて窮屈な思いをした人も多いのではなかろうか。

 

「愛は地球を救う」という言葉がある。美しく耳障り良い理想の言葉だ。

しかし私は、「救わない愛だってある」ということを敢えて言いたい。毒親の愛情も、DV加害者の暴力も、全て「愛」という名目で行われることがある。「愛だから」拒絶できない、「愛だから」逃げられない、そういう風に愛に押しつぶされ、愛に殺された人達も大勢いる。

 

一郎彦の振る舞いだって、父・猪王山への愛ゆえだった。だからといって、渋谷を燃やし、大勢の人を吹っ飛ばした罪が消えるわけではない。(そのため、結局みんな軽傷で済んでいた、というご都合主義な展開は実に興ざめだった)

猪王山が一郎彦に事実を伝えなかったのも愛ゆえだ。だからといって、成長の過程で一郎彦を苦しめた事実が消えるわけではない。

熊徹・九太親子のように、うるわしく結実するだけが愛ではない。時に闇に変質し、それこそ怪物にすら姿を変えるのが、愛というものの厄介さだ。

その厄介さを避けて描いたところで、本当の愛を語ったとは言えない。

 

エンドロールが終わって周りの観客が感動の旨を口にして立ち去る中、私は大暴れの悪夢から目覚めた後の一郎彦の空虚な瞳を思い出し、独り暗澹としていたのである。

『エイジハラスメント』という奇妙なドラマについて

テレ朝の今季夏ドラマ『エイジハラスメント』について書こうと思う。


このドラマはまだ第二話が放映されたばかり、という序盤も序盤なので、今後の経過次第では感想も変わってくるとは思うが、とりあえず今まで見て感じたことを述べようと思う。

『エイジハラスメント』は近年よくある、社会問題の一つを取り上げそれを主眼に据えた「社会派ドラマ」であると同時に、現実の我々が言いたくても言えない、やりたくてもやれないことを主人公に肩代わりしてもらう、いわば「カタルシス系ドラマ」の体裁もとっている。
しかし、前者の特徴である社会問題(この場合はエイジ・ハラスメント)に関しては、やや現実離れし過ぎるレベルで存分に強調しているとは思うが、後者のカタルシスについてはどうにも弱い。
というか、もどかしい。
出そうで出ない、出たけど残便感がある、視聴後の爽快感がまるで無い、そんな感想を否めない。
これはなぜなのだろう。以下に分析してみた。

①主人公が微妙

「カタルシス系ドラマ」の最大にして最低限の条件は、まず「主人公は正義の味方」であることだ。
完全無欠とまでは言わなくても、主人公の考えは正しく、魅力的で説得力がなければいけない。そうでなければ、反対派や悪役をやり込める時に視聴者がカタルシスを得られないからだ。
そのため主人公にはある程度以上のスキルや才能が求められ、何か一つのことについて抜きん出た天才であるとか、文武両道に長けたスーパーマンであることが多い。
例えば『半沢直樹』の主人公・半沢は、優秀な銀行マンで部下からの信頼は篤く、家庭では妻の尻に敷かれがちながら概ね良き夫である。正しく生きる、優秀で理想的なサラリーマン、それなのに上司から不条理な出向を命じられたりする、だから「頑張れ半沢!」と視聴者は思うし、上司をやり込めた時は「よくやった!」と喝采を浴びることになる。ところがこれ、もし半沢がルーティンもこなせないようなボンクラだったら、説得力の欠片もなくなってしまうのである。

さて、一方このドラマのヒロイン、武井咲演じる吉井は、商社の新入社員で、バリバリのキャリアを目指すつもりだったのにいきなり総務部に配属され、雑用ばかりをさせられる日々を不満に思っている。正直なところ、この設定も正義の味方としては「微妙」である。ここまで大きな自社ビルを構える企業の総務部は、電球の取り替えみたいな仕事はビルメンテの人間に任せるだろうという現実感の無さもそうだし、そもそも「雑用なんてキャリアのやることではない」という差別意識を不愉快に思う視聴者もあるだろう。
しかしそこは「雑用だって立派な仕事である」と、ヒロインが気付いていく成長物語としての演出なのではないかと、はじめは思ってた。

ところがこの吉井ちゃん、度々このような「新人としてそもそもどうなんだろう」という言動を繰り返している。
社屋のエレベーター内で他の社員も居るなかで突然果物を頬張ったり、先輩に「お疲れ様でした」と挨拶されてるのにぶっきらぼうに「はい、疲れました」と返すエピソードなどは、主人公の豪胆さを表現したのかもしれないが、単なる「非常識な新人」として映ってしまう。
曲がりなりにも与えられた自分の仕事を「雑用」と蔑んで嫌々こなし、挙げ句の果てに「もっとやり甲斐のある仕事をください」と上司に訴え、それが聞き入れられなければ同じことをその上の上司に直訴する。
稲森いずみ演ずる大沢課長の「あなたはまだ入社四ヶ月なのに何を焦ってるの?」や「もっと周りを見て」という言は至極尤もである。

そのような非常識エピソードが積み重なってるせいか、クライマックスの「40人分のお茶汲み」にブチ切れるシーンも、「自分の頭のハエも追えないくせに文句だけは一人前の新人が、突然ブチ切れて先輩に怒鳴り散らす」ようにしか見えず、見ていて清々しさが皆無なのである。
続く二話目はまだ、ブチ切れる相手が「若い女にやに下がり、年老いた妻を冷遇する」クズい不倫男であったため、視聴者の共感は得やすいかもしれない。それでも、主人公がどの立場から憤っているのかがよくわからず、やはり「唐突にブチ切れた」という印象が拭えなかった。

何よりこの主人公、「行動理念」というものがまるでハッキリしていない。
当初は「商社のキャリアになってバリバリ仕事したい」とか「苦しい実家を助けてあげたい」とか、わりと型通りの志がほの見えていたが、意に染まぬ部署に配属されてその志もボヤけてしまったように思うし、一話目で退職に追い込まれた先輩の仇を討ちたいというわけでも、「職場のハラスメントと断固戦う」でも別になさそうである。
このような勧善懲悪の形式をとった「カタルシス系ドラマ」においては、主人公の行動理念や立ち位置というものが最も重要なのだが、それがイマイチ不明であるゆえに、折角のクライマックスシーンも理由なくキレてるようにしか見えないのである。
これは後の展開で確立していくことを是非期待したい。今の人物像のままでは、ヒロインとしてあまりに貧相である。

②課長のキャラがブレブレ

勧善懲悪形式のカタルシス系ドラマの魅力を支える大きな柱の一つとして、「悪役の魅力」というのも欠かせない。
またしても『半沢直樹』を引き合いに出すが、あのドラマは悪役がものの見事に憎たらしくしかしコミカルに描かれ、主人公が彼らをやり込めた時は胸がすく思いがすると共に、その反応の滑稽さゆえに後味の悪さも残らない演出になっていた。
逆に社会派ドラマにおいては、「悪役」は悪役であって悪役でない、という描き方をするのが優れたドラマの要件である。なぜなら現実の社会問題は複雑で、善悪の区別が容易につけられるものではなく、仮にそのような色分けを安直にしてしまえば、ドラマ自体が軽薄なものになってしまうからだ。
近年、ハラスメント問題を描いた社会派ドラマとして非常に優れていた『問題のあるレストラン』においては、便宜上「悪役」として描かれた男達の事情も後にきちんと描かれており、対立ではなく共存を望む主人公達の願いが際立つ演出がされていた。

さて、ここで『エイジハラスメント』の大沢課長(稲森いずみ)に立ち返りたい。
正直、彼女のキャラは「ブレブレ」である。二話目を見終わった今も、私には彼女の人物像というものが掴めていない。これが演出だとしたら、通常一人のキャラに一つないしは二つ位しか特徴を与えないテレビドラマにおいては、非常に斬新である。
大沢課長は始め、繊維二課の優秀な社員だったにも関わらず、後輩の男子社員に課長として抜かれ、畑違いの総務課長に飛ばされるという、まさに「エイジハラスメント」の被害者として登場する。仕事面では冷静沈着な人でありながら、悩める女性キャリアという側面を持つ人物、というふうに描かれていくのだと、私は思った。
ところが、ヒロインが配属されていきなり「若いというだけで憎たらしい」という謎の器の小ささを発揮し、しかも抜かれた後輩男子と実は不倫関係にある、という生臭さ。ああ、「ヒロインをいじめる悪役」として描かれるのかな、と思い直した。
ところがその後もヒロインをきちんとフォローするし、仕事の上ではしごく真っ当な上司として振る舞い続ける。でも反面では「痛い」というワードを異様に気にしたり、独身のお局様に対して「既婚だから自分はマシ」と安心してみたり、若いヒロインに対して年老いた自分を感じて焦ってみたり、結局あんたの立ち位置どこやねんという感じで第二話が終了してしまった。

おそらくこれは、社会派ドラマにおける"悪役"が持つような「悩める女性」「虐げられる女性」「(期せずして)加害者になってしまった女性」などという側面と、カタルシス系ドラマにおける「いじめ」「嫉妬」などの"悪役"要素を全部トッピングした結果、このようなちぐはぐな人物像が出来上がったのだと思われる。
こちらも今後彼女がどういうスタンスで行くのか確定すれば、ドラマがぐっと面白くなるはずである。

③決め台詞がダサい

勧善懲悪形式のドラマにおいてはしばしば、主人公がいわゆる「決め台詞」を放つことがある。
ドラマ自体がヒットすれば流行語大賞にすらなる位であるから、この「決め台詞」は単なる口癖の域を超え、主人公の人となりを一発で表し、なおかつ物語のアクセントとなるような、キャッチーでハイセンスな言葉選びを求められる。
例えば『半沢直樹』の「やられたらやり返す、倍返しだ!」や古いところで『家なき子』の「同情するなら金をくれ」辺りはその代表格である。『ごくせん』のヤンクミのように、髪をほどく仕草と効果音がその代替をすることもある。

それを鑑みてこの『エイジハラスメント』を改めて見ると、吉井は確かにキレる直前に決め台詞らしき口癖を吐いている。

「てめえ、五寸釘ぶち込むぞ!」

しかしこれ、決め台詞としては正直「0点」である。

一応これは彼女の郷里の父より教えられた、「逆境に負けずに踏ん張れ」という心意気を表す言葉なのであるが、"五寸釘ぶち込む"という行為はおよそ清涼感とは無縁の「丑の刻参り」を髣髴とさせるし、それは憤怒というよりは怨嗟と呪詛のイメージであるし、単に「容赦しないぞ」というような意味にしても「五寸釘をぶち込む」はやり過ぎである。単なる傷害予告にしか聞こえない。
このような過激な台詞を、端正な顔の可憐な娘が吐く、というところに意外性を持たせようとする演出なのかもしれないが、正直何の面白みも無いし、脈絡も無いので台詞だけ浮き上がってしまってる印象だ。結局ヒロインが「唐突にキレてる人(しかも品が無い)」になってしまってるのである。
私は内館牧子氏の原作は未読であるが、あれがドラマオリジナルの演出だとしたら、失敗だと言わざるを得ない。それこそ台詞無しで効果音挿入だけで良かったのではないか。


以上、私がこのドラマにカタルシスを得られない、三つの理由を述べた。

冒頭で私は「このドラマはカタルシス系としては弱い」と述べたが、実は「社会派ドラマとしても中途半端」という印象が拭い去れない。
「エイジハラスメント」という重要な社会問題を扱っていながら、人物考察やドラマ全体の問題提起が浅薄であり、見ている内に「結局エイジハラスメントって何なの?」と首を傾げてしまうことがしばしばだ。
おそらく中途半端に勧善懲悪的な演出を入れてしまっているせいで、キャラそれぞれの掘り下げなどが出来ていないことが原因と思われる。
しかし、カタルシス系としても決め台詞や悪役が今ひとつキマってないため、痛快さがない。
結果、どっちつかずの方向性不明なドラマになってしまっているというのが、今のところの印象である。

果たして今後の展開で社会派として化けてくれるのかーー例えばパワハラ被害者の伊倉(杉本哲太)や男性のマタハラ問題を抱えた佐田(要潤)などの物語がきちんと描かれるのか、今のところギャラリーでしかない女子社員達の事情は描かれるのかーー、もしくはカタルシス系で突き抜けて社内ドロドロバトルが勃発するのか、はたまたこのまま中途半端路線を突っ走り、安直にヒロインがキレて終わるだけのドラマとして終わってしまうのか、是非とも注目していきたいと思う。
個人的には、元NHKアナウンサー・山根基世氏の静謐なナレーションを無駄遣いしてくれないことを、切に願うばかりである。

闘争の果てにあるもの〜問題のあるレストラン考

超今更ではあるが、前回のクールで木曜10時からやっていたフジテレビのドラマ『問題のあるレストラン』について書こうと思う。

『問題のあるレストラン』は『Mother』や『それでも、生きてゆく』など、社会派のドラマも手がけると同時に、『最高の離婚』などに代表される、軽妙な台詞回しと緻密な人物描写などでも定評のある坂元裕二氏の脚本になるものだ。
今回はシリアスな「社会派ドラマ」の側面と、コミカルな「人間ドラマ」の側面をバランス良く併せ持ち、重過ぎずかつ軽過ぎもしない絶妙なドラマに仕上がっていたと思う。

『問題のあるレストラン』はそのタイトルの通り、各々が内に「問題」を抱えた女性達がレストランを経営する物語であり、彼女達はなおかつ周りから「問題児」として社会から爪弾きにされた女性達でもある。
彼女らの問題は例えば、
職場でのパワハラ&セクハラであったり、
夫からのモラハラであったり、
毒親からの搾取であったり、
セクシャルマイノリティとしての苦悩であったり、
それぞれが、味わったことの無い人達にはおよそ「想像出来ない」あるいは「なかったことにされている」、だが確実に社会に存在している問題である。

このドラマは、予告編で「6人の怒れる女達が立ち上がる!」などと煽られていて、現にそれらの問題を抱えた女性達が、自分を虐げた男性達に対して宣戦布告をしてるストーリー、のように見える。
それゆえに、フェミニズム的なものを片っ端から叩かずにはおれない人達に叩かれたり、一部おじさま達の不興を買ったりもしていたようである。

しかし、それは大きな勘違いであると私は感じた。

テレビドラマとは、色んな人達から共感されてこそ成り立つメディアである。
だからこそ、そこに描かれるのは、男女の恋愛だったり友情だったり親子の愛情だったり、そうした至極ありふれた、だが人々が求めずにはいられない「多数派の幸福」を描く物語になりがちである。

勿論そうした物語は一定数必要だ。
だが、そこに共感出来ない人達を照らす眼差しが、この『問題のあるレストラン』には籠められていた。

結局このドラマの中では、「問題」は何一つ解決しない。
三千院さんは夫との離婚調停が終わらないし、千佳ちゃんは両親と何ら和解してないし、五月のセクハラ問題すら決着を見ないまま、たまこのレストランは閉店に追い込まれる。
そこに視聴者のカタルシスを得るような「大団円」などは一つも用意されていない。

でも、それはそれで「正しい結末」なのである。現実の問題はそんなに簡単に片付くものではないし、これはむしろ「こういう問題がある」と提示したことが重要で、ドラマ内での解決が意図ではないからだ。

このドラマは、「こういう問題がこの世にはある。だから目を背けないで」と問い掛けることこそが、大いなるテーマである。

第一話で、ヒロインのたまこは言い放つ。

「女が幸せになれば、男の人だって幸せになれるのに!」

それは彼女の最低限の願いであり、最大の望みでもあった。
「男死ね」でも「男滅びろ」でもない。
「男も女も、共に幸せになろう」こそが彼女の本懐であり、このドラマのメインテーマでもある。

最終話において、たまこは夢を見る。
そのレストランでは仲間の女性達も、今までの話の中では(形の上では)敵だった男性達も、一緒にチームとなって、理想のレストランを作っている。
「いい仕事がしたい」冒頭に出てきたこのセリフが、なんの含みも飾り気もない、彼女の真の願いであったことが明らかになるシーンである。

このシーンを見た時、私は涙があふれて止まらなかった。
とかく人々はこのテの話題に対して「男vs女」みたいな構造を思い描きがちであるけれど、彼女らが本当に望んでいることは、「男に取って代わり女が支配する世界」なんかでは勿論無く、ただ皆が仲良く手を取り合う世界であると。それを実現したいがために、結果的に戦うための武器を手にしなければいけない人達が、少なからず居るということ。そしてそのような物語を、仮にも民放キー局で、男性の脚本家が描いてくれたということ。
そうしたことに対する悲喜交々の感情が胸に迫ってきて、私は何とも言えない深い感動に打ちひしがれたのだった。

このドラマを単に、「女に媚びへつらうだけのドラマ」とだけ見る人もいたかもしれない。
でも、このドラマの中で最も力を入れて描写されていたのは、虐げられる女達でも虐げてる男達でも無く、「厚切りベーコンのポトフ」である。
あのあまりにも美味そうな「厚切りベーコンのポトフ」によって、幸せにしたい人達は誰か。それは男でも女でもない、美味しいものを食べたいと願う全ての人達である。
かつてとある牧師が切々と語ったように、「虐げた者も虐げられていた者も、分け隔てなく食卓につく」世界を望む心が、そのポトフには宿っているような気がしてならないのである。

生きることはどうしてこんなに辛いのか〜『マーキュリー・ファー』考

世田谷シアタートラムで現在上演中の、『マーキュリー・ファー』を見て来た。


『マーキュリー・ファー Mercury Fur』 | 世田谷パブリックシアター/シアタートラム

 
脚本はフィリップ・リドリー、演出は白井晃
期待通り、素晴らしい作品だった。
 
フィリップ・リドリー&白井晃の組み合わせで上演された芝居を見たのはこれが初めてではない。
最初に見たのは2002年、『ピッチフォーク・ディズニー』だった。
忘れもしない、山本耕史さんの輝くばかりの演技を初めて見たのもこの芝居だった。
 
内容は、時代も国もどこかよくわからない家に、大人の見た目なのに子供のような言動をしている兄妹が住んでいて、二人は謎かけのような会話をしている。そこに謎の美青年コスモ・ディズニーと、異様な覆面を被ったピッチフォークという男が現れる。珍客二人によって兄妹の日常が徐々に狂っていくという筋立てになっているが、結局この兄妹が何者でこの家がどういう状況なのか、そして珍客二人の正体なんかも、最後まで明確にはされない。
リドリーはこういう、どこか抽象的で、でもその分深読みの余地がある本を書く人である。
 
『ピッチフォーク・ディズニー』は、まだ10代だった私の心に強烈な印象を焼き付けた。
性的な目で妹を見ようとするコスモや、それに対する兄の嫌悪と恐怖、覆面を取った時のピッチフォークを見た時の、主人公達の悲鳴、そういった、どこかざらっとした手触りの描写が、真に迫って胸を打ったのである。
 
そして今日、およそ十数年ぶりにリドリーの芝居を見た。
内容は、『ピッチフォーク・ディズニー』よりはかなりわかりやすくなっていた。
 
舞台は、爆撃が日常化し、略奪と暴力が横行するようになってしまった、荒廃したイギリスのどこか。若者達は「バタフライ」と呼ばれる麻薬のようなもので、束の間の夢を見て乱世の苦悩を誤魔化して生きている。
そこで主人公の兄弟が、「パーティ」の準備をしており、二人はその準備を巡ってあれこれ問答をしている。
だがその「パーティ」とは「パーティプレゼント」と呼ばれる子供を「パーティゲスト」である権力者が己れの欲望を満たすために殺す、という残虐極まりないものだったのである。
 
直接的な描写はないものの、そこに登場するのは目を覆いたくなるような暴力と悪意の応酬だ。
その情け容赦のない内容ゆえに、リドリーは「こんな残酷な話を書ける人とは付き合えない」と、友人から絶縁までされてしまったという。
 
しかし、一見センセーショナルな暴力描写の根底に流れているのは、リドリー自身がこの世界の理不尽さに覚えている深い憤りのように思えた。
 
主人公の兄弟達は、確かに残酷な宴に加担しているが、宴の生贄にされる子供はそれ以前に、両親を目の前で殺され、薬漬けでボロボロになっていたりする。
兄弟自身も、戦争により精神を病んだ父親に殺されかけ、母親がそれを庇って発狂しているという経歴を持つ。
結局、どう足掻いても地獄しか待っていない主人公達の状況は、いっそ死んだ方がマシかもしれないとすら思えてくる。
 
それでも、主人公は叫ぶ。
「せめて死ぬこと位は自分で選びたい」
と。
爆撃の火花が降る中、せめて火薬や兵士の手にかけるよりはと、この手で愛する弟を殺そうとする兄の姿に、私は涙を禁じ得なかった。
 
私が『ピッチフォーク・ディズニー』に感じ、更に『マーキュリー・ファー』に感じた共通のテーマ、それは「なんてこの世界は生きづらいんだろう」というシンプルな、だが生きている限り永遠に続く問いだった。
そしてこれは、私が好きな多くの物語に通奏低音として流れているテーマでもあった。
 
進撃の巨人』しかり。
ゲド戦記』しかり。
もののけ姫』しかり。
私的今季ベストドラマである『問題のあるレストラン』しかり。
 
「生きていることはこんなに辛いのに、それでもなぜ生きていかなければならないのか」
「それは死ぬこととどちらがマシなのか」
 
そうした問いは、常に私が自分に繰り返しては、それでもその苦しみすら、生きていなければ感じないのだから、と思い直して生きている。
そういう苦しみを感じたことがある人が多いからこそ、きっとこうした物語はいつまでも人類の間で生まれ続けていくのだろう。